佐野郷(読み)さのごう

日本歴史地名大系 「佐野郷」の解説

佐野郷
さのごう

現裾野市域南部の佐野・茶畑ちやばたけ辺りを中心とした中世の郷(国衙領)で、箱根はこね社領伊豆国佐野郷(現三島市)と接していた。南北朝時代に鎌倉円覚寺に寄進されたのは地頭職得分のみであり(永和三年一二月一一日「官宣旨」円覚寺文書、以下断りのない限り同文書)、寄進後も、一五世紀初頭においてなお国衙領であった。鎌倉末期地頭職は北条氏一門の大仏貞直がこれを領していたが、元弘三年(一三三三)幕府滅亡に伴い後醍醐天皇によって没官され、足利尊氏の手に渡った(「足利尊氏・直義所領目録」比志島文書)。なお同目録では「佐野庄」と記されているが、佐野郷の誤記であろう。地頭職はその後室町幕府直轄領から鎌倉府直轄領へと移管され、応安八年(一三七五)鎌倉公方足利氏満によって、円覚寺伽藍再興料所に施入される(「空華日用工夫略集」二月一七日条)。ところが本来、当郷には鎌倉公方奉公衆の大高氏一族が権利を有していたらしく、執拗に抵抗することとなった。そこでまず、同年三月二二日に大高重成の干渉が排除され(関東管領上杉能憲奉書)、永徳二年(一三八二)二月一六日には成氏が年貢二〇〇貫文の代官請負を鎌倉円覚寺に誓約する(大高成氏押書)


佐野郷
さのごう

二上ふたがみ庄に接する地域にあった国衙領と思われるが、取込まれて二上新庄を形成したようである。文永六年(一二六九)以降の年月日未詳関東下知状(宮内庁書陵部蔵土御門家文書)により、二上新庄雑掌盛基と佐野郷地頭水巻景高(法名信仏)との相論が知られ、両者は鎌倉において対決し、雑掌盛基が行った下縄検注は国例に対する違反行為と認定されている。越中そして北陸では、従来から領家方により新田が開発されても、地頭方の同意なしに検注することはできず、新田の所当も正式検注を経てその地が公田として認定されるまでは弁済されないのが通例であった。


佐野郷
さやごう

和名抄」に「佐野」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今ノ新治郡佐谷村也、佐谷、及雪入、大峯等ノ村里、称シテ佐谷郷ト云フ」とあり、現新治にいはり郡千代田村上佐谷かみさや・中佐谷・下佐谷・雪入ゆきいり大峯おおみね比定する。


佐野郷
さのごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「左乃」と訓を付す。山本郡に隣接して合志こうし郡佐野村(現菊池郡泗水町南田島)があり、この地にあてる「事蹟通考」の説が一般に支持されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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