日本大百科全書(ニッポニカ) 「作物作付制限令」の意味・わかりやすい解説
作物作付制限令
さくもつさくつけせいげんれい
田畑につくる作物の種類を制限する法令。江戸時代では幕府の出した煙草(たばこ)の作付制限がよく知られている。幕府は初め1612年(慶長17)8月、喫煙の禁止とともに煙草の作付けを禁じたが、喫煙の風習が広まり、とうていこれを禁ずることができない状態をみるに至って、穀作奨励と表裏をなして煙草の作付けを制限するようになった。42年(寛永19)5月には、幕府領・私領ともに本田畑に煙草をつくることを禁じたが、同年8月に出された法令では、翌年より本田に煙草をつくらないこととし、もしつくる者があれば新田を開いてつくることとしている。しかし43年3月には、本田畑・新田畑とも煙草作を禁じている。さらにこの年8月、新地を開いての煙草作は、これを許している。なおこのとき、田での木綿作と、田・畑における油用の菜種(なたね)の作付けを禁じている。こうした一連の作物作付制限令は、41年、42年と続いた大飢饉(ききん)の対策として、食料を確保するためのものであったようである。以後、煙草は原則として本田につくることが禁じられた。その後1702年(元禄15)12月、本田畑でも半分はつくってよいと、煙草の作付制限が緩和されている。諸藩の例では、岡山藩が木綿・藺(い)を一定の統制のもとに栽培を認めていたように、一般に穀物以外の作物は制限する方針がとられた。しかし商品経済が進むにつれ、特産物の生産が奨励され、作物作付制限令は形式的に残存する傾きとなったが、1871年(明治4)9月、明治政府は「田畑勝手作」を許して、この制限は全面的に撤廃された。
[伊藤好一]