保険業(読み)ほけんぎょう

改訂新版 世界大百科事典 「保険業」の意味・わかりやすい解説

保険業 (ほけんぎょう)

保険加入者から保険料を収受し,保険事故が発生したときに保険金を所定の者に支払う事業をいう。なお保険事業という用語もあるが,これは経営形態によって国営保険事業,公営保険事業,私営または民営保険事業等に分かれ,内容によって社会保険事業,生命保険事業,損害保険事業に分かれる。保険業(狭義の保険事業)は,このうち民営の,生命保険事業または損害保険事業を指す。

 民営の保険業は〈保険業法〉(1939公布。1995年に後述のように大幅改正)によって規制を受ける。同法によれば,保険事業を営むには,大蔵大臣の免許を受けなければならず,事業の運営について継続的に大蔵大臣の監督を受けなければならない。保険業を営むことのできる者は,資本または基金の総額が10億円以上の株式会社または相互会社であることを要する。

 ところで,損害保険は実損害額を塡補(てんぽ)するのを原則とするのに対し,生命保険は支払われる保険金が定額であるという特徴のほかに,保険事故が人の生死に限定されている点に独自の特徴がある。生命保険と損害保険を兼営することは禁止されているが,人の生死以外の事故である傷害や疾病を保険事故とし,定額の保険給付を行う傷害保険疾病保険については,第三分野の保険として,1995年改正の保険業法の施行により,生保・損保会社の相互参入が認められた。

1992年6月の保険審議会答申〈新しい保険事業のあり方〉を基礎として,95年5月,保険関係法規の抜本的改正が行われた。56年ぶりの改正となった新保険業法は96年4月より施行された。これは旧来の保険業法,保険募集の取締りに関する法律,外国保険事業者に関する法律の三つの法律が一本化されたもので,(1)規制暖和・自由化の促進,(2)保険会社の健全性の維持,(3)公正な事業運営の確保,の3点を基本的指針として,(a)子会社方式による生損保の相互参入(従来の生損保兼営禁止は廃止),(b)保険ブローカー制度の導入,(c)ソルベンシー・マージン(保険金支払余力)基準の導入,(d)保険契約者保護基金の創設,などが行われた。これに基づき96年10月より損保の生保子会社11社と外資系2社が生保市場に,生保の損保子会社6社が損保市場に参入した。

生命保険会社は45社,損害保険会社は33社ある(1998年9月現在)。また総務庁〈事業所統計調査〉(1996)によれば,保険業の従業者は約67万人,事業所数は約2万2000である。収入保険料でみると,生命保険会社44社が29兆3535億円,損害保険会社33社が7兆2281億円である(1996年度末)。なお,国際比較では,日本の生命保険会社の収入保険料は世界第1位,損害保険会社の元受保険料は世界第2位(いずれも1997年度)である。

 なお,日本の生命保険会社の保有契約高の国民所得に対する比率は569%と世界でも最も高く,次いで韓国(357%)が高い。なお,アメリカは200%である(1994年末)。

日本の生命保険業は,1881年明治生命保険会社(現,明治生命保険相互会社)の設立に始まる。明治20年代に入り,経済の安定を背景に,88年に帝国生命保険(現,朝日生命保険相互会社),89年に日本生命保険会社(現,日本生命保険相互会社)が相次いで設立され,明治20年代後半には,生命保険会社の数も20を超えた。その後,日露戦争を乗り切った生命保険業は,明治末から昭和初期にかけて順調に発展していった。1935年ころには,契約高は100億円を超え,資産も増加し,金融機関としての地位もしだいに向上してきた。

 しかし,第2次大戦後の日本経済の混乱,激しいインフレは,長期にわたる契約である生命保険に大打撃を与え,戦前における蓄積は著しく減少し,生命保険業は壊滅の危機に瀕した。この打開策として,金融緊急措置令施行規則の改正(1946公布),金融機関経理応急措置法(1946公布)などにより,生命保険業は再建へ向かって再出発した。打撃が大きかっただけに回復も経済全般の復興よりも遅れ,1957,58年ころになって,ようやく戦前の水準に復帰することができた。その後の成長はめざましく,昭和30年代の後半には新契約の伸びは毎年30%を超えるほどで,1966年度末には契約高は世界第2位に達した。だが,生命保険の普及が一巡したことや,簡易保険,各種共済等との競合が激しくなってきたこと,加えて経済全般が高度成長から安定成長へ移行してきたことなどによって,生命保険業をめぐる環境は厳しくなっている。

日本の損害保険業は,1879年に開業した東京海上保険会社(のち東京海上火災保険。現,東京海上日動火災保険)に始まる。ついで87年に東京火災保険会社(のち安田火災海上。現,損害保険ジャパン)が開業し,以降続々と損害保険会社が開業した。日清戦争前後には多数の会社が乱立したが,過当競争による経営のゆきづまり等により,そのほとんどが消滅した。第1次大戦による好況は保険業界にも浸透し,損害保険会社の新設も30社に及んだ。ところが,その後関東大震災が起こり,保険契約上,地震による火災損害は保険者無責ではあったが,世論や社会経済情勢を勘案して,保険会社は政府の助成金(貸付金)を得て,一定金額の見舞金を支払った。この負担は長く重圧となって残った。一方,日本経済も世界恐慌の影響を受け,やがて深刻な不景気に陥った。損害保険会社のなかにも経営が悪化するものが続出して,整理統合が進められ,大会社中心の数グループが形成された。同時期に,種々の保険プールが形成され,市場の組織化が進んだ。日華事変から第2次大戦へと戦乱が拡大するにつれて,国家統制による損害保険会社の整理統合が進められ,1939年の48社が,終戦時の45年には16社にまで統合された。

 敗戦によって船舶,工場,住宅などの付保対象が激減し,損害保険業も厳しい状況に直面したが,その後の工業生産の回復,貿易の再開等,日本経済の復興に支えられ,昭和20年代の終りには損害保険会社は急速な立直りをみせた。さらに,1958年ころからの高度成長の波に乗って,業績も高成長を示したが,なかでも1955年の自動車損害賠償保障法の成立による自動車損害賠償責任保険,いわゆる自賠責(強制)の伸びと昭和40年代の本格的なモータリゼーションによる自動車保険(任意)の急成長により,68年には自動車保険部門の構成比が全体の5割を超えた。一方,多様化する消費者のニーズに応ずるため,長期総合保険,積立てファミリー交通障害保険などの満期返戻金付きの長期保険や,団地保険のような総合保険が発売された。
保険
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「保険業」の意味・わかりやすい解説

保険業
ほけんぎょう

わが国では、1939年(昭和14)に制定された保険業法をはじめとする保険関係法規は、約半世紀の間、抜本的見直しが行われることがなかった。しかし、この間の保険業を取り巻く環境条件の大きな変化を考えると、根本的な見直しは不可欠であった。

 そこで、当時の大蔵大臣の諮問機関であった保険審議会(1998年以降金融審議会)は3年にわたる審議の結果を1992年(平成4)6月、「新しい保険事業の在り方」として最終答申した。さらにほぼ2年にわたる法制面からの専門的な検討ののち、94年6月、「保険業法等の改正について」として保険審議会報告を大蔵大臣あて提出した。これに基づいた新保険業法は、95年6月7日に公布、翌96年4月1日に施行された。新法をめぐる大きな問題点は次のとおりである。

(1)生損保兼営問題 旧法では「生命保険事業と損害保険事業は兼営できない」(旧7条)とされていた。これに対し改正法では、生命保険と損害保険は本体では兼営できないが、子会社方式による相互参入が認められた(新106条)。これにより、96年10月1日から大手生保、損保の子会社が営業を開始した。

(2)他業態との相互参入 旧法では「保険会社は他の事業を兼営できない」(旧5条)とされており、新法でも、保険業と銀行業あるいは証券業の間の相互参入については禁止されている。しかし、金融制度の抜本的改革の日本版「ビッグバン」の一つとして、この相互参入が大きな課題となっており、その動向が注目される。

 なお、保険業の自由化をめぐって日米保険協議が行われ、1996年12月14日に決着した。これにより、損害保険料率は98年7月までに完全自由化された。さらに、傷害保険などのいわゆる第3分野への国内生保、損保子会社の参入制限は、段階的に緩和して、子会社については2001年1月に完全自由化され、本体については同年7月となった。

[金子卓治]

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保険基礎用語集 「保険業」の解説

保険業

経済的意義においては、ある経営主体が、業として自らが保険者となって多数の人々との間に、保険契約を締結し、保険料を対価として危険負担というサービスを提供すること。

出典 みんなの生命保険アドバイザー保険基礎用語集について 情報

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