韓国(大韓民国)の軍人、政治家。第11~12代大統領。慶尚南道(けいしょうなんどう)陝川(せんせん)郡生まれ。1951年大邱(たいきゅう)高工卒業。1955年陸軍士官学校第11期卒業し、陸軍少尉任官。1960年アメリカ歩兵学校修了。1965年陸軍大学校卒業。軍中枢と最高会議、中央情報部など権力中枢部のポストを歴任し、1970年にはベトナム派遣白馬部隊連隊長として実戦に臨んだ。1979年の朴(ぼく)大統領暗殺事件当時に国軍保安司令官として混乱を処理し、1980年5月に光州騒乱を鎮圧して、同年8月第11代大統領に就任。1981年2月、第五共和制憲法下で民主正義党総裁として第12代大統領に当選し、3月就任した。その後、1983年ビルマ・ラングーン事件のテロや、学生・民主化勢力の攻撃を受けつつ、アメリカ、日本、アジア諸国等との関係を緊密化し、1988年のソウル・オリンピック招致に成功するなどの実績を築いた。1988年に任期を終え、平和的に政権を交替した。一時、任期中の非違を問われ山中に謹慎したが、1995年軍反乱罪等の罪で逮捕され、刑に服した。1997年特赦で出獄した。
[玉城 素]
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1931~
軍出身の韓国の政治家,大統領(在位1980~88)。慶尚北道出身。陸軍士官学校を11期生として卒業,ベトナム戦争に従軍。朴正熙(パク・チョンヒ)大統領暗殺事件当時,国軍保安司令官。戒厳司令部合同捜査本部長として事件の捜査を担当した。80年に中央情報部長代理を兼務し,光州事件後,事実上の軍事政権である国家保衛非常対策委員会委員長に就任した。同年8月に大統領就任。混乱した事態を収拾し,経済再建とソウル・オリンピック誘致に成功。84年9月には韓国の大統領として初めて日本を公式訪問した。
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「チョン・ドファン(全斗煥)」のページをご覧ください。
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…維新体制に対する民衆の批判を高度経済成長の実現によってかわしながら長期政権を維持した朴正熙は,79年の第2次石油危機を契機とする不況と,それを背景とした労働運動の高揚,野党=新民党(総裁,金泳三)の急進化,釜山・馬山の民衆暴動等の一連の政治的危機の深まりのなかで,10月26日に腹心の部下である金載圭中央情報部長に射殺され,衝撃的な最期を遂げた。 以後80年前半にかけて民主化運動は急激に発展,次の政権をねらう野党系の金大中,金泳三(1927‐ )と朴政権直系の金鍾泌(1926‐ )が民主化で歩調を合わせ,〈三金時代〉と呼ばれる韓国政治の新時代が始まるかにみえたが,急速な政治変革を恐れた軍部は,80年5月17日の非常戒厳令の全国化によって実権を掌握し,抵抗する光州の学生・市民多数の虐殺(光州事件,85年の政府報告では死者192人)を通して,再び軍人中心の全斗煥(1931‐ )政権(第5共和国)を成立させた。全政権は88年ソウル・オリンピック開催などで韓国の国際的評価の向上に努めたが,強権的政治体制と民主化運動という対抗基軸が,依然として韓国の政治を規定する基本的要因であることに変りはなかった。…
※「全斗煥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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