八幡浦(読み)はちまんうら

日本歴史地名大系 「八幡浦」の解説

八幡浦
はちまんうら

琵琶湖に通じる八幡堀に沿う浦で八幡湊とも称された。近世、琵琶湖舟運の主要な湊として大津・堅田とともに俗に三親浦と称された(八幡町史)。八幡堀は船入堀ともよばれ、天正一三年(一五八五)羽柴秀次による八幡城築城の折に同城の堀として鶴翼かくよく山麓に掘られたものと伝え、北庄きたのしよう村地先の西にしの湖から湖水を取入れ、同村―多賀村―八幡町―船木ふなき村と結んで西流し、南津田みなみつだ村地先の津田の入江で再び湖水に入る。全長約六キロ。当浦は八幡堀に沿う地域・船付場の総称ともいえるが、とくに八幡町の永原ながはら町から幸円こうえん橋の間が湊の名にふさわしく、一般にはまとよばれて物資の積卸しが最も多かった。天正年中、豊臣秀吉は琵琶湖沿岸の他浦にまで船を差向け廻船業を営むことのできる浦を当浦を含む三親浦に限定、一般に艫折廻船制度とよばれる新しい湖上水運の秩序を確立した。古くからの湖上交通の拠点であった堅田・大津に加えて当浦が三親浦の一となったのは、秀次が八幡城主であったことに負うところが大きかったといわれている。


八幡浦
やはたうら

[現在地名]芦辺町諸吉 本村触

玄界灘に突き出た八幡半島の東端にある。江戸時代、諸吉もろよし村のうちにあった壱岐八浦の一つ。平戸藩浦掛の支配を受け、在方の本村諸吉村とは別に扱われる場合が多い。寛文四年(一六六四)今里いまざと村の民家を棚江たなえ(田部)の浜に移し、より八幡宮が鎮座することから八幡浦と名付けたという(壱岐国続風土記)。「壱岐国続風土記」によれば、寛政一〇年(一七九八)当時は戸数一〇四・人数五一九、牛二八、小船一七・伝通船一七で、神社は寄八幡宮など。


八幡浦
やわたうら

[現在地名]市原市八幡浦・八幡

江戸湾に臨んで置かれた湊で、上総諸郡の年貢米の津出湊であるとともに、材木・炭のほか浜方の海産物を扱った。史料上は八幡浦のほか八幡村河岸などとみえる。往古より五大力船の船株があり、上総国諸村から諸御屋敷様方に納める年貢米をはじめ、安房筋の産物や市原・長柄ながら夷隅いすみ各郡などの薪炭・果物・穀物・野菜などの江戸向けの諸荷、戻り船では浜方漁用や農用の諸品を運送していた。元禄三年(一六九〇)の幕府廻米津出浦々河岸之道法并運賃書付(徳川禁令考)に八幡・五所ごしよ浦とみえ、道程九里の江戸まで運賃は米一〇〇石につき一石三斗であった。嘉永四年(一八五一)当時幕府代官・領主に船役永を納める船二八艘、川船役所に年貢役銀を納入する船四艘があった(慶応大学蔵文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の八幡浦の言及

【八幡】より

…町内の町数は幕末64~65ヵ町を数えた。また八幡浦は近世の湖上交通の要所で,大津・堅田とならび湖上三親浦と称され,今日も残る堀割(運河)によって町の商工業活動が展開した。1647年(正保4)八幡神社に渡海船額を奉納して知られる海外進出の西村太郎右衛門,近世初期松前の漁場を開いた岡田八十次,松前藩の御用商人西川伝右衛門,元和年間(1615‐24)江戸日本橋に開店した西川甚五郎,西川利右衛門に代表される商人のほか,大坂,京,名古屋等に進出する商人たちは,近江商人の典型であった。…

※「八幡浦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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