八日市村(読み)ようかいちむら

日本歴史地名大系 「八日市村」の解説

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]八日市市八日市町・東浜町ひがしはまちよう本町ほんまち上之町かみのちよう

現市域のほぼ中央にある。中世以降賑った八日市庭の中心地域。「源平盛衰記」巻一九(佐々木取馬下向事)に「蒲生郡小脇の八日市」とみえる。ただし中世の八日市の呼称は南の蒲生がもう金屋かなや村を含むものであった。永正一四年(一五一七)一〇月一七日の勧進猿楽日記(今堀日吉神社文書)では、八日市の彦左衛門から太刀一振が今堀いまぼり勧進猿楽に納められたことがみえ、八日市の塔下(塔本)からも太刀が納められていた。天文一八年(一五四九)一二月四日の神人足子入目日記(同文書)では八日市塔本から五〇文が惣庄へ納入されており、保内商人に属する足子商人がいたと考えられる。

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]河原町八日市

北から北西に流れを変える千代川左岸に位置し、北西は佐貫さぬき村、対岸は釜口かまのくち村。支村として上土居かみどいがある(因幡志)。永禄四年(一五六一)八月吉日の福島甚二郎末国売券(来田文書)に末国の在所として「八日市は」とみえ、市場の存在が想定される。この売券は北弥七郎に佐治さじ(現佐治村)など周辺地域の伊勢道者職を売渡した際のもので、末国は大安興だいあんこう(現用瀬町)に連なる御師的存在であったと考えられる。

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]村上市八日市・岩船上いわふねかん町・岩船上大いわふねかみおお

西は砂丘・松林を隔てて日本海に面し、北は岩船町、東はひやつ川を隔てて新飯田にいだ(現岩船郡神林村)に接する。応安三年(一三七〇)九月二〇日の色部資長譲状(米沢市立図書館蔵色部氏文書)に「八日市」とみえ、田在家が資長から養子彦童丸に譲られている。天正―慶長(一五七三―一六一五)頃の色部氏年中行事(色部文書)によれば、正月五日に八日市の鈴木新五郎が色部氏当主のもとに出仕し、盃・酌を受けている。

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]神川町八日市

中世の鎌倉街道上道が南東の児玉郡八幡山はちまんやま(現児玉町)から村内を北西方向に抜ける。東は同郡上真下かみましも(現同上)熊野堂くまのどう村、南は同郡保木野ほきの(現同上)。天正一九年(一五九一)八幡山城(現児玉町)城主松平家清知行分を示した武州之内御縄打取帳(松村家文書)によると村柄は下之郷で、田方七町八反余・畑方二四町九反余(うち屋敷二三八歩)、俵高三四九俵余。田園簿では田方二〇〇石・畑方三四五石、旗本戸田領。天明六年(一七八六)幕府領になったとされ(風土記稿)、天保九年(一八三八)戸田領に復した(「古郡村地誌調書上帳」内田家文書)

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]長船町八日市

長船村の南、吉井川左岸にあり、西は吉井川を挟んで上道郡一日市ひといち(現岡山市)に面し、南は福岡ふくおか村。下流の福岡村・福永ふくなが村、豆田まめだ村・福山ふくやま(現邑久町)の四村とともに、もと上道郡であったが、洪水による吉井川の流路変更により邑久郡に編入されたとみられるが、その編入時期は明らかでない。「備前記」に「村西大川ノ川原ヨリ向、一日市村へ船渡、西国海道也」とあり、山陽道の渡河地であった。中世には福岡庄に含まれ、暦応四年(一三四一)「吉井村内八町河原并八日市等」の預所職は快円が所有していた(同年閏四月八日「快円請文」東寺百合文書)。貞和二年(一三四六)九月日の光信申状案(同文書)によれば、「八日市庭」は弥次郎が知行している。

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]金沢市八日市一―五丁目

八日市新保ようかいちしんぽ村の南東、金沢平野の中央に位置する。北は八日市出ようかいちで村。かつて地内に惣門そうもんという所があり、地名は同所と集落とを結んで家並が続き、八日ごとに市が立ったことに由来するという(加賀志徴)正保郷帳では高八六二石余、田方五〇町七反余・畑方六町八反、ほかに新田高二五六石余がある。この新田分がのちに八日市出村として分村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高九四二石・免四ツ七歩で、ほかに山役一七五匁・蝋役一匁・野役二五匁、鳥役二〇目(ただし鷹場につき除役)の小物成が課せられていた(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数一〇・百姓数二〇(高免付給人帳)。宝永五年(一七〇八)の家数は四六、人数二七四で、馬一九(「高免家数等覚帳」後藤文書)

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]七宗町神渕かぶち 上八日市かみようかいち中八日市なかようかいち下八日市しもようかいち

たけ山を発する八日市川上流に沿った山間地帯に位置する。中之保なかのほ(現武儀郡武儀町)からの北条ほうじよう峠越の飛騨道が村の南を走る。東は中切なかぎり村、南は大塚おおつか村、西は奥田おくだ村、北は杉洞すぎほら村。神淵十郷の一つで、八日市組とも称した。

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]加賀市八日市町

柴山しばやま潟に注ぐ八日市川中流右岸に位置し、北陸街道が横断する。「越後下向日記」によると延徳三年(一四九一)三月一〇日、冷泉為広は越後下向の途次「八日市」を通ったが、その「左ニ芝山湖アリ」「右ニ十日市」があった。東に隣接する額田十日ぬかたとおか市とともに江沼えぬま郡の流通の要衝であった。正保郷帳によると村高二六八石余、田方一四町一反余・畑方二町三反余、物成高九九石余。「江沼志稿」でも村高はあまり変わらず、家数一二・人数二三、馬三。

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]中仙町豊岡とよおか 八日市

奥羽山脈の裾野に近く、東は小沼こぬま村、西と北は野中のなか村、南は椿つばき村と接する。

享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に合計当高は一一七石余とあり、同期の「六郡郡邑記」には家八軒、支郷は二本木にほんぎ村一軒であった。「月の出羽路」に一五戸とある。

元和六年(一六二〇)八日市村・椿村・野中村三ヵ村は入角いりすみ山の入角沢を水野目林として三ヵ村に管理を任せてほしい旨請願し、認可された。

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]八王子市滝山町たきやままち

もと谷地やじ村のうち。永禄年間(一五五八―七〇)北条氏照滝山城にあった頃、当地に市が立ったので八日市宿とよび、のち谷地村または永宿えいしゆく村と称したのを八日市に改めたという(加住誌稿)。古くは滝山のうち谷地村で、のち分立した上谷地かみやじ村が八日市村に相当するという(風土記稿)

八日市村
ようかいちむら

[現在地名]湖北町八日市

青名あおな村の北東、高時たかとき川右岸に位置。西を北国街道が通る。天正一六年(一五八八)から文禄四年(一五九五)までの山年貢高・家数などを記した山田郷山年貢等覚(東浅井郡志)に村名がみえる。同覚によれば天正一六年の山年貢高二石余で、家数五一、同二〇年の屋敷高は六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報