八神村
はかみむら
[現在地名]頓原町八神
獅子村の西に位置し、西は石見国安濃郡上山村(現大田市)。出雲・石見国境の山間の村で、中央部を北流する須佐川(現神戸川)に支流財谷川(現才谷川)が合流する。須佐川は地元では大川と称され、船津渡に渡船一艘がある(郡村誌)。正保国絵図に村名がみえる。寛文五年(一六六五)の検地帳では反別八一町四反余・高一千一六〇石余、戸数六八。寛政一〇年(一七九八)の定免相札(飯石郡誌)では高一千六八石余。近世にはタタラ製鉄が盛んで、地内に製鉄遺跡一一ヵ所がある。
八神村
やがみむら
[現在地名]羽島市桑原町八神・桑原町前野
石田村の南に位置する桑原輪中内の村。八上とも書いた。西はおよそ桑原川、東は木曾川に限られ、枝村に前野村と木曾川対岸の拾町野村(現愛知県中島郡祖父江町)がある。「新撰美濃志」・天保郷帳に古名を桑原村というとあり、元応二年(一三二〇)四月三日の沙弥承念譲渡所領注文案(妙興寺文書)に桑原村がみえ、貞治六年(一三六七)一二月一二日には「中島郡桑原村内須賀垣内名」内の八反が妙興寺(現愛知県一宮市)に寄進されている(「中島長利寄進状写」同文書)。このほか妙興寺文書の寄進状に桑原村が散見する。戦国期には毛利氏の知行下にあり、居城八神城があった。
八神村
やかみむら
[現在地名]江津市松川町八神
那賀郡のうち、江川下流部右岸、東は下河戸村、江川を隔てて田野村に対する。正保国絵図に村名がみえ、高一二八石余。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によれば田方八八石余・畑方四一石余、年貢高は米二〇石余・銀二八六匁余、家数本家一三・門屋二一、馬三・牛四で、威鉄砲一があり、小物成に川網役銀一匁がみえる。「郡村誌」によれば水田一五町七反余・畑一七町余と畑が増加し、戸数は寺社を含めて七五、人数四二八、農閑期は製鉄用の薪採取に従事するとある。
八神村
ねりがみむら
[現在地名]柵原町八神
塚角村の西にある山間の村。正保郷帳では同村の内で、延宝六年(一六七八)に分村したという(作陽誌)。元禄一〇年(一六九七)の美作国郷村帳に村名がみえ、高五〇石余。「作陽誌」では戸数一一、男五八・女五〇。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は塚角村と同様。天保九年(一八三八)津山藩領郡村記録では家数一八、男五一・女三八。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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