六角鬼丈(読み)ろっかくきじょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「六角鬼丈」の意味・わかりやすい解説

六角鬼丈
ろっかくきじょう
(1941―2019)

建築家。東京生まれ。祖父六角紫水(しすい)は漆芸家として東京美術学校の一期生で横山大観菱田春草(しゅんそう)らと岡倉天心師事。父も漆芸家。鬼丈は1965年(昭和40)東京芸術大学美術学部建築科卒業後、磯崎新(あらた)のアトリエに勤め(1965~1969)、1969年独立、六角鬼丈計画工房を開設する。1991年(平成3)より東京芸術大学美術学部建築科教授(~2009)。

 東京芸術大学は六角が大学時代を過ごし、建築を学んだ地である。しかしその外縁に位置する六角の設計による東京芸術大学美術館(1999)からは、六角の学生当時芸大で教鞭をとっていた吉田五十八(いそや)、吉村順三といった、数寄屋(すきや)建築や住宅建築の巨匠の直接的な影響は見られない。磯崎アトリエに入所した当時は、アトリエ内は日本万国博覧会を目前に控え技術指向や未来指向が議論され、一方、当時の東京は学園紛争の最中であり、一歩外に出ると学生を中心とする反体制的活動が繰り広げられていた。六角は磯崎アトリエでの一連の仕事に決着をつけ、自立して事務所を構えるが、まず『都市住宅』などの建築雑誌へいくつものバージョンによる自邸計画案No.1~3(「伝家の宝塔」「心相器」「肉体訓練の道具と場」)を発表し、注目を浴びることになった。それは技術指向、未来指向を見せながらも、矛盾に満ちた批評的で個性的な計画案であった。1968年に実現した自邸を含む一連の小さな住宅は、「八卦(はっか)」に基づいた平面による「八卦ハウス」(1970、東京都)など、当時の建築界を風靡していた都市論からはかけ離れたテーマをもっていた。しかし、六角がその建築家としてのオリジナリティーと実力を見せたのは「雑創の森学園」(1977、京都府。吉田五十八賞受賞)である。風で動く彫刻をつくる新宮晋(しんぐうすすむ)(1937― )と協同し、子どもの空間、子どもの建築というテーマと表現を発見し、新たな感性を探る展開を始めたのである。

 1980年代に入り六角は、毛綱毅曠(もづなきこう)、渡辺豊和石山修武(おさむ)(1944― )らと婆娑羅(ばさら)グループを結成した。ほかのメンバーと同じく建築に神道や東洋思想を導入するが、六角が設計する建築や計画には強い宗教性はなく、例えば根っこ付きの大木がリビングに横たわる「樹根混住器」(1980、群馬県)など、むしろ五感に訴えたり身体的な感覚に基づく原初的な空間の発見が中心であった。

 1990年ごろからは、「東京都杉並区知る区ロード休憩所」(1993、東京都)で行ったように、複数の芸術家と協同し、公園のデザインを通じて、遊びの空間や地域コミュニティの核としての環境づくりへの関心を高めた。

 東京武道館(1990、東京都。日本建築学会賞)は六角にとって最大の公共建築である。武道というともすれば象徴的、神道的な表現が求められる施設のデザインに対して、六角はあえてギザギザとした具体的なパターンを外皮や構造に繰り返すことで建物の目的を抽象的に表すことに成功したのである。「東京芸術大学大学美術館」(1999、東京都)では際立った形態やディテールをあからさまに表現することはせず、金属と石という限られた素材の組み合わせだけに集中した。材質感による、シンプルなボリュームを街並に象眼(ぞうがん)したのである。大学、上野の杜(もり)という地域的な文脈、また、芸大の卒業作品を納めるという特殊な文脈に対しての六角の解答であった。

 そのほかのおもな作品としては、「金光教福岡高宮教会」(1980、福岡県)、「富山県立山博物館まんだら遊苑」(1995、富山県)、「岩出山保育園」(1997、宮城県)などがある。

[鈴木 明]

『『新鬼流八道ジギルハイド――叛モダニズム独話』(1990・住まいの図書館出版局)』『日本の建築家編集部著『日本の建築家3 「六角鬼丈」奇の力』(1985・丸善出版)』

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