六鎮の乱(読み)りくちんのらん

改訂新版 世界大百科事典 「六鎮の乱」の意味・わかりやすい解説

六鎮の乱 (りくちんのらん)

中国,北末の内乱北魏は陰山山脈南麓一帯に軍鎮を置いて北方防衛に当たらせた。その主な六つの鎮(沃野,懐朔,武川,撫冥,柔玄,懐荒)を六鎮といい,旧族長層の一部を定住させて鎮の中核としたが,北魏の漢化が深まると時代から取り残されて冷遇を受け,鎮内には不満が高まった。524年(正光5),沃野鎮民の破六韓抜陵の暴動契機に六鎮全体に反乱がひろがり,さらに陝西,甘粛方面にも波及した。数十万の鎮民はいったん降伏したが,南下して河北一帯で再び蜂起し,528年(武泰1)爾朱栄(じしゆえい)に鎮定された。しかしこれに続く軍閥抗争の中で北魏王朝は瓦解した。この乱は貴族制社会に打撃を与え,隋唐帝国への道を開いた事件として大きな意義をもつ。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「六鎮の乱」の意味・わかりやすい解説

六鎮の乱
りくちんのらん
Liu-zhen zhi luan; Liuchên chih luan

中国,北魏末の6世紀前半に,北辺の鎮民が起した反乱。北魏は初め平城 (山西省大同) を都とし,北辺防備のため特別の軍政区として鎮を設け中原豪族子弟鮮卑匈奴系の北方豪族を移住させ優遇した。しかし孝文帝が南寄りの洛陽に遷都してから,次第に冷遇されて賤民的存在と化し,中央派遣の鎮の長官に酷使されて恨みをいだくようになった。正光4 (523) 年北魏軍が柔然 (じゅうぜん) 討伐に敗退し,さらに飢饉に迫られ一斉に挙兵した。7年後鎮圧されたが,北魏衰亡の原因となった。この乱のなかから台頭した鮮卑族の将軍高歓宇文泰らが次代の実権者となる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「六鎮の乱」の意味・わかりやすい解説

六鎮の乱
りくちんのらん

中国、北魏(ほくぎ)末の内乱。北魏は柔然(じゅうぜん)などに対処するため、軍事拠点として北辺に懐朔(かいさく)、武川(ぶせん)など六つの鎮を設置した。その一つ沃野(よくや)鎮で524年に起こった反乱は、他の五鎮や諸州、諸鎮を巻き込み、北魏全版図にわたる大反乱に発展した。乱は爾朱栄(じしゅえい)によって530年にひとまず終結したが、直後に爾朱氏と北魏朝廷という新たな対立が起こり、さらに東魏、西魏の実力者となる高歓(こうかん)と宇文泰(うぶんたい)の対抗関係を生じた。歓も泰も六鎮の出身であり、北魏の東西分裂は六鎮の乱の帰結であるといえる。乱の原因としては、鎮に派遣された北魏の軍事力を支えた鮮卑(せんぴ)を中心とする北方民族が、漢化政策などにみられる中央政府の変質により、もとの地位を失ったことがあげられる。

[窪添慶文]

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旺文社世界史事典 三訂版 「六鎮の乱」の解説

六鎮の乱
りくちんのらん

523〜30年,中国,北魏末に起こった内乱
北魏は北方防衛のために軍鎮を置いた。六鎮とはその主要な6つのこと。北魏の漢化の進行に伴い,冷遇されるようになったことを不満とし,蜂起した。反乱は鎮圧されたが,これに続く軍閥の抗争により,北魏は崩壊に向かった。

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世界大百科事典(旧版)内の六鎮の乱の言及

【宇文泰】より

…宇文氏は北魏の政策により武川鎮(内モンゴルのフフホト北方)に移住定着して,代々北辺の守備に任じ,名家として知られた。六鎮(りくちん)の乱が起こると,宇文泰は父兄とともに中国内地に南下し,北魏が関中に派遣した反乱討伐軍に身を投じた。軍司令官賀抜岳が殺されると,諸将に推されてそのあとを継ぎ,高歓と対立する北孝武帝を長安に迎えて,西魏の事実上の主権者となった。…

※「六鎮の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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