ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
中国、北魏(ほくぎ)末の内乱。北魏は柔然(じゅうぜん)などに対処するため、軍事拠点として北辺に懐朔(かいさく)、武川(ぶせん)など六つの鎮を設置した。その一つ沃野(よくや)鎮で524年に起こった反乱は、他の五鎮や諸州、諸鎮を巻き込み、北魏全版図にわたる大反乱に発展した。乱は爾朱栄(じしゅえい)によって530年にひとまず終結したが、直後に爾朱氏と北魏朝廷という新たな対立が起こり、さらに東魏、西魏の実力者となる高歓(こうかん)と宇文泰(うぶんたい)の対抗関係を生じた。歓も泰も六鎮の出身であり、北魏の東西分裂は六鎮の乱の帰結であるといえる。乱の原因としては、鎮に派遣された北魏の軍事力を支えた鮮卑(せんぴ)を中心とする北方民族が、漢化政策などにみられる中央政府の変質により、もとの地位を失ったことがあげられる。
[窪添慶文]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…宇文氏は北魏の政策により武川鎮(内モンゴルのフフホト北方)に移住定着して,代々北辺の守備に任じ,名家として知られた。六鎮(りくちん)の乱が起こると,宇文泰は父兄とともに中国内地に南下し,北魏が関中に派遣した反乱討伐軍に身を投じた。軍司令官賀抜岳が殺されると,諸将に推されてそのあとを継ぎ,高歓と対立する北魏孝武帝を長安に迎えて,西魏の事実上の主権者となった。…
※「六鎮の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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