中国,東魏政権の創立者。北斉朝,高祖と諡(おくりな)される。正史に勃海・蓚(河北省)の人と記すが,別名賀六渾からも知られるように,北族系または北族化した漢人であろう。祖父謐(ひつ)のとき法を犯して懐朔鎮(内モンゴル包頭(パオトー)北方)に流刑となり,高歓も同地の鎮兵であった。北魏末,乱世の兆しを見て野心を抱き,同志侯景らと革命を計画した。たまたま六鎮の乱が起こり,群雄のもとを転々としたのち爾朱栄のもとに身を投じた。爾朱栄の死後,爾朱氏が捕虜とした六鎮の旧反乱民20余万の司令官となり,漢人豪族と同盟して爾朱氏一族を滅ぼし,華北東半部を手中に収めた。高歓は北魏帝室を天子に頂き,鄴(ぎよう)を首都として東魏政権を建てたが,自分自身は大丞相・都督中外諸軍事として幕府を晋陽(太原)においた。門閥主義否定の潮流の中に崛起(くつき)した風雲児高歓は,人材登用に意を用い,質実な生活態度を持して人心を収め,北斉政権の基礎をきずいた。ただ西魏の宇文泰としのぎをけずって戦ったが勢力伯仲し,華北平定の志は実現に至らなかった。
執筆者:谷川 道雄
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中国、東魏(とうぎ)の実権者。正史には漢人名族出身と記すが、鮮卑(せんぴ)種と思われる。北魏北辺の懐朔鎮(かいさくちん)の卑職にあったが、六鎮(りくちん)の乱に参加、ついで実力者爾朱栄(じしゅえい)に降(くだ)ってその有力な部将となった。栄の死後、栄に降伏していた北鎮の旧反乱民を掌握し、河北の漢人豪族と結んで爾朱氏を打倒し、孝武帝を擁立した。孝武帝が関中に拠(よ)る宇文泰(うぶんたい)のもとに奔(はし)ると、孝静帝をたてて鄴(ぎょう)に遷都させ、北魏は東西に分裂した。東魏において彼は大丞相(じょうしょう)、都督中外諸軍事として晋陽(しんよう)に府を開き、西魏の宇文泰と対峙(たいじ)する一方、長子の高澄(こうちょう)を鄴に派遣して朝廷を制肘(せいちゅう)し、諸功臣の抑圧を遂行した。のちに北斉(ほくせい)を建てた文宣帝高洋は歓の第2子である。
[窪添慶文]
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