高歓(読み)こうかん(その他表記)Gāo Huān

精選版 日本国語大辞典 「高歓」の意味・読み・例文・類語

こう‐かんカウクヮン【高歓】

  1. 中国、南北朝北斉高祖。後魏の孝荘帝が殺されると、孝武帝を擁立し、渤海王に封ぜられた。帝が宇文泰もとに走ると孝静帝を即位させ、後魏を東西に分裂させ、東魏実権を握って、北斉の事実上創始者となる。後に高祖神武帝と諡された。(四九六‐五四七

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改訂新版 世界大百科事典 「高歓」の意味・わかりやすい解説

高歓 (こうかん)
Gāo Huān
生没年:496-547

中国,東魏政権の創立者。北斉朝,高祖と諡(おくりな)される。正史に勃海・蓚(河北省)の人と記すが,別名賀六渾からも知られるように,北族系または北族化した漢人であろう。祖父謐(ひつ)のとき法を犯して懐朔鎮(内モンゴル包頭(パオトー)北方)に流刑となり,高歓も同地の鎮兵であった。北魏末,乱世の兆しを見て野心を抱き,同志侯景らと革命を計画した。たまたま六鎮の乱が起こり,群雄のもとを転々としたのち爾朱栄のもとに身を投じた。爾朱栄の死後,爾朱氏が捕虜とした六鎮の旧反乱民20余万の司令官となり,漢人豪族と同盟して爾朱氏一族を滅ぼし,華北東半部を手中に収めた。高歓は北魏帝室を天子に頂き,鄴(ぎよう)を首都として東魏政権を建てたが,自分自身は大丞相・都督中外諸軍事として幕府を晋陽(太原)においた。門閥主義否定の潮流の中に崛起(くつき)した風雲児高歓は,人材登用に意を用い,質実な生活態度を持して人心を収め,北斉政権の基礎をきずいた。ただ西魏の宇文泰としのぎをけずって戦ったが勢力伯仲し,華北平定の志は実現に至らなかった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高歓」の意味・わかりやすい解説

高歓
こうかん
Gao Huan; Kao Huan

[生]太和20(496)
[没]武定5(547)
中国,東魏 (→北魏 ) の実権者で北斉王朝の事実上の創建者。北斉になって神武皇帝と追諡された。正史によると渤海郡の人であるが,事実は北魏の懐朔鎮におかれた鮮卑系の武人出身である。北魏末の六鎮の乱に加わったが,やがて爾朱栄に帰服し,爾朱栄の死後は河北に出,渤海郡の豪族高乾らと結んで爾朱氏を破り,その根拠地山西を取り,孝武帝を擁して北魏の実権を握った。永煕3 (534) 年帝が宇文泰のもとに逃れると,孝静帝を立てて 鄴 (ぎょう) を都とし,東魏の実権者となった。北魏の漢化政策に不満をもった鮮卑系士庶を基盤として華北要部を支配。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高歓」の意味・わかりやすい解説

高歓
こうかん
(496―547)

中国、東魏(とうぎ)の実権者。正史には漢人名族出身と記すが、鮮卑(せんぴ)種と思われる。北魏北辺の懐朔鎮(かいさくちん)の卑職にあったが、六鎮(りくちん)の乱に参加、ついで実力者爾朱栄(じしゅえい)に降(くだ)ってその有力な部将となった。栄の死後、栄に降伏していた北鎮の旧反乱民を掌握し、河北の漢人豪族と結んで爾朱氏を打倒し、孝武帝を擁立した。孝武帝が関中に拠(よ)る宇文泰(うぶんたい)のもとに奔(はし)ると、孝静帝をたてて鄴(ぎょう)に遷都させ、北魏は東西に分裂した。東魏において彼は大丞相(じょうしょう)、都督中外諸軍事として晋陽(しんよう)に府を開き、西魏の宇文泰と対峙(たいじ)する一方、長子の高澄(こうちょう)を鄴に派遣して朝廷を制肘(せいちゅう)し、諸功臣の抑圧を遂行した。のちに北斉(ほくせい)を建てた文宣帝高洋は歓の第2子である。

[窪添慶文]

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