中国,西魏王朝の創立者。遠祖は匈奴系で遼西の鮮卑諸部落を統帥したという。宇文泰の字黒獺(こくたつ)も胡族としての名である。宇文氏は北魏の政策により武川鎮(内モンゴルのフフホト北方)に移住定着して,代々北辺の守備に任じ,名家として知られた。六鎮(りくちん)の乱が起こると,宇文泰は父兄とともに中国内地に南下し,北魏が関中に派遣した反乱討伐軍に身を投じた。軍司令官賀抜岳が殺されると,諸将に推されてそのあとを継ぎ,高歓と対立する北魏孝武帝を長安に迎えて,西魏の事実上の主権者となった。国軍の将帥は多く同郷の武川鎮出身者で固められ,宇文泰はその第一人者として軍の全権を掌握した。高歓としのぎをけずって勢力伯仲したが,漢人官僚蘇綽(そしやく)と意気投合して内政の革新にもつとめた。その理念は素朴主義に帰ることにあり,彼自身儒学を好んだ。当時門閥貴族制批判の潮流があり,宇文泰は北族出身の堅実な名家としてそれを代表する人物であった。
執筆者:谷川 道雄
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中国、西魏(せいぎ)の実権者で、北周の事実上の創設者。字(あざな)は黒獺(こくらい)。祖先は宇文部(鮮卑(せんぴ)の一有力部族)の部族長。4世紀末、泰の4世の祖のときに北魏に帰順して北辺の武川鎮(ぶせんちん)に移住し、その後、代々鎮民として北方防備にあたっていた。523年北鎮に発した鎮民反乱は北魏の内乱、瓦解(がかい)にまで発展、そのなかで宇文泰はしだいに頭角を現し、535年長安を根拠に北魏の一族を皇帝に擁立して(西魏の文帝)、高歓(こうかん)の擁立した東魏、および南朝の梁(りょう)と鼎立(ていりつ)した。西魏は初め軍事的に劣勢だったが、宇文泰は大丞相(じょうしょう)として質実の風を柱に政治を行い、胡(こ)姓の復活、二四軍(府兵制の前身)の創設、周礼(しゅらい)主義に基づく六官の制の採用などを施行し、北鎮出身勢力と関中豪族との胡漢合作政権の統一運営に成功、国力を充実させた。泰の死後、子の宇文覚が北周を創建した。
[佐藤智水]
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505~556
北魏の武川鎮(ぶせんちん)(内蒙古自治区武川県)の人。鮮卑(せんぴ)の一族長で,北魏末の六鎮の乱中から出て,長安に勢力を得,孝武帝,文帝,廃帝を擁して西魏の実力者となり,府兵制を始め,のちの隋唐の法制,官制のもとを開いた。死後,子の宇文覚(うぶんかく)が魏に代わって北周を建てる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…北朝では,異民族支配者が自己の種族の兵を国軍の中核にすえ,漢人を臨時補助的兵士として徴募したが,王朝の漢人社会への同化につれて,本族兵の地位が低下した。西魏の宇文泰(505?‐556)は,漢人徴募兵を直属させて六柱国・十二大将軍・二十四開府儀同が統率する二十四軍に編成,恒常的に儀同府に統轄し,郡県の戸籍から分離し,賦役を免除した。これらは,当番出動以外は農業に従事する民兵であって,隋・唐の衛・府兵制の起源とされる。…
…534‐556年。北魏末に陝西・甘粛方面の反乱を討伐するため中央から派遣された軍が武将宇文泰を中心に自立し,洛陽から魏帝を迎えて長安を首都に西魏王朝を建設した。その国力はライバルの東魏に比べて貧弱であったが,北鎮系の軍と現地の漢人豪族とが協力して,府兵制,六官の制など一連の復古的革新政策を打ち出し,よく東魏に対抗した。…
※「宇文泰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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