共同印刷争議
きょうどういんさつそうぎ
1926年(大正15)共同印刷株式会社(従業員2300人)で起こった日本労働組合評議会指導の大争議。同社の労働者は評議会関東出版労働組合の中堅であったが、会社はその力をそぐため、250人に操業の半減とその分の賃金の不払いを発表し、組合が拒否しスト断行を決議するや、工場閉鎖、1894人の解雇を発表し、組合は1月20日ストに突入。おりから日本共産党の再建が進行中で、渡辺政之輔(まさのすけ)らその指導者がアジトを設け、活動分子を「細胞」に組織するなどの新戦術が採用された。全国的に労働組合、消費組合、左翼文化団体などが支援する一方、会社は暴力団や臨時職工を工場に入れて作業の再開を図るなど、労使の激突となり、争議団から生活困窮による脱落者・就業者も現れた。3月18日、組合は退職金12万円、争議費用1万円、再雇用200人などの条件で敗北したが、会社も事業を縮小するなどの打撃を受けた。この争議を題材にした徳永直(すなお)の小説『太陽のない街』は有名。
[松尾 洋]
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共同印刷争議【きょうどういんさつそうぎ】
1926年1〜3月に起きた労働争議。日本労働組合評議会系の出版労働組合に属し,その主力であった共同印刷会社労組は会社の操短命令に反対してストに入り,会社は全員解雇を通達。組合は秘密指導部,細胞組織などの闘争戦術をもって会社・官憲の弾圧と切崩しに抗したが,検束者延べ1500名,拘留者延べ500名を出し,60余日間の長期ストの結果1人平均100円の手当と引替えに争議団全員1180人解雇という結果に終わった。徳永直の《太陽のない街》はその体験に基づく作品。
→関連項目日本労働組合評議会
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きょうどういんさつそうぎ【共同印刷争議】
1926年(昭和1)1~3月,東京小石川の共同印刷でおきた労働争議。同社を拠点とする日本労働組合評議会(評議会)出版労働組合は,〈評議会の常勝軍〉の異名をとるほど戦闘性・左翼性で勇名をはせていた。会社側はその勢力一掃を企て,1月に経費節減の名目で操業短縮を命じ,これをきっかけとして60日間に及ぶ争議が始まった(労働者の大半の約2000人が参加)。評議会の指導下に,組合側は〈アジト〉を設け,〈細胞〉を組織し,他組合の支援をうけて奮闘したが,労働者の足並みが乱れ,ついに争議団全員1180人の解雇という惨敗に終わった。
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世界大百科事典内の共同印刷争議の言及
【大橋光吉】より
…25年博文館印刷所(1905年博進社印刷所を改組)と精美堂を合併して共同印刷を設立,取締役社長に就任した。26年共同印刷争議が起こったが,石山賢吉の斡旋により2ヵ月余で解決した。【矢作 勝美】。…
【評議会】より
…実際に26年11月から27年3月に起きた健康保険法関係の争議68件中,44件が評議会の関与したものであった。総同盟など他の組合に比べ,はるかに多くの争議を指導したが,なかでも有名なものは徳永直の《太陽のない街》で知られた共同印刷争議,浜松の日本楽器争議である。 評議会はまた共産党の合法部隊として,無産政党結成運動でも大きな役割を果たした。…
【渡辺政之輔】より
…1922年,創立直後の日本共産党に入党,ただちに南葛労働協会(翌年,南葛労働会と改称)を組織して左翼労働組合の拠点を作った。25年,日本労働組合評議会(評議会)結成とともにそのリーダーとなり,共同印刷争議などの争議を指導した。23年には第1次共産党事件で投獄された。…
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