略称評議会。1925年(大正14)5月27日、日本労働総同盟(総同盟)第一次分裂によって創立され、28年(昭和3)4月10日、治安警察法第8条により結社を禁止された左翼組合の全国中央組織(ナショナル・センター)。22年7月、総同盟の左派指導者の参加のもとに日本共産党が非合法に結成され、総同盟もその影響を受けて左翼化した。しかし、関東大震災(1923)ののち政府が普通選挙の実施を声明し、25年5月には普通選挙法が公布されるという政治情勢の展開を通じ、総同盟幹部を中心に社会民主主義の勢力が台頭し、左右対立が激化した。24年12月、総同盟関東労働同盟会から左翼5組合が除名され、5組合は関東地方評議会を結成して本部直属になり、機関紙『労働新聞』を創刊して左派の全国的宣伝をしたので、左右抗争は全国に広がった。総同盟中央委員会は関東地方評議会の解散を決定したが、これに応じないため、25年3月、評議会加盟6組合を除名した。6組合は、支持組合を拡大しながら総同盟刷新同盟を組織したため、5月には、総同盟本部派はさらに左派23組合を除名、左派は32組合、1万0778人で評議会を結成、総同盟には40組合、1万9460人が残り、その勢力は二分された(評議会側の発表では評議会32組合、1万2500人、総同盟35組合、1万3110人)。
評議会幹部には後の共産党幹部が多く、その争議指導は戦闘的であった。また国際的にはプロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)と連携をもち、日本の中国革命干渉に反対して五・三〇運動には上海(シャンハイ)へ代表者を派遣、1927年漢口で開かれた第1回汎(はん)太平洋労働組合会議に6人を参加させ、あるいは当時のソ連労組代表レプセを招待するなど国際連帯行動にも努めた。非合法の共産党の活動を一部代行するなど左翼セクト主義の傾向もあり、激しい弾圧を受けたが、2年間で公称59組合、3万5000人へと発展した。27年5月の第3回大会では「政党政派を問わず資本に対する統一闘争のために共同」の方針を決め、金融恐慌下で工場委員会・工場代表者会議などの大衆的統一闘争を組織し、失業手当法をはじめ五法律獲得闘争を展開した。28年の三・一五事件の弾圧の一環として、労働農民党、全日本無産青年同盟とともに安寧秩序を乱す団体として結社を禁止された。同年12月、その後身として日本労働組合全国協議会(全協)が結成された。
[松尾 洋]
『谷口善太郎著『日本労働組合評議会史』(1975・新日本出版社)』▽『野田律太著『評議会闘争史』(1931・中央公論社)』
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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