内房・外房(読み)うちぼう・そとぼう

日本歴史地名大系 「内房・外房」の解説

内房・外房
うちぼう・そとぼう

房総南部の広域通称名。旧安房国の浦賀水道側を内房、同じく太平洋側を外房と称する。海陸の景観その他内海と外海の諸特徴を有し、古代から海を通して外界と深い関係を保った。

〔内房の漁業と水運〕

内房は明鐘みようがね岬で旧上総国に接し、鋸南きよなん保田ほたの入江からりゆう島・岩井袋いわいぶくろ岩礁を過ぎて富山とみやま久枝くし高崎たかさきの入浜となる。富浦とみうら南無谷なむや崎から岡本おかもとを含む出入りの多い小入江が続き、大房たいぶさ岬を過ぎると安房最大のかがみヶ浦(館山湾)が湾入し、岩礁に富んだ館山市洲崎すのさきは内房の最南端となる。こうした海岸により近代以前から捕鯨をはじめ多様な魚種と漁法に恵まれる。

徳川家康の関東入国後関西漁民の出漁がみられ、館山を拠点とした摂州西宮にしのみや(現兵庫県西宮市)の座古屋佐治兵衛をはじめ、江戸の隆盛に伴い船形ふなかた(現館山市)に居住して魚商売で立身した四郎左衛門らが知られる。彼を頼りとした四宮六右衛門は元和四年(一六一八)から寛永一三年(一六三六)まで商売し、これを元手に船形、多々良たたら(現富浦町)、岡本に小漁船を引連れて漁業を行った。元和期には安房を起点にして銚子でまかせ網を引き始めた。寛永一五、六年からは紀州・泉州・安芸の漁民が八手網・まかせ網をもって鰯漁を行った(安房郡水産沿革史)。先発漁村の岡本村は家康が慶長一九年(一六一四)一月上総東金とうがねに鹿狩の際、タイ、スズキ、ヒラメイセエビなど磯付きの魚介を上納し、御菜浦となり、広い漁業権を得たという。佐倉藩主堀田氏の明暦元年(一六五五)の検地の際こうした漁村の船役が本高に組入れられ、漁業年貢の基本形が形成され、海年貢・網役運上のほか鮑・鯔などの諸種の請負および漁獲高に関し十分一運上が課せられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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