内町村(読み)うちまちむら

日本歴史地名大系 「内町村」の解説

内町村
うちまちむら

[現在地名]真室川町内町

現真室川町の南部、南流する真室川東岸台地麓に位置し、西方耕地が広がる。寛永二年(一六二五)に破却された地内の鮭延さけのべ城の城下として早くから町場も形成されていたと考えられ、近世、北接する新町あらまち村とともに、庭月にわづき郷の中心地であった。古くはほん町と称し(吉村本村鑑)、真室を冠して真室内町ともいわれた。新田本村鑑は枝郷として長沢前ながさわまえ野々村ののむらじんさわ鍋倉なべくらをあげる。


内町村
うちまちむら

[現在地名]福島市大森おおもり

大森村の南に位置する小村。村名は伊達氏時代に大森城下に取込まれ町場を形成していたことによる。古高新高帳によれば、米沢藩領時代の古高二二四石余、幕府検地による新高一六三石余。領主清水町しみずまち村と同じ変遷をたどり、宝暦五年(一七五五)幕府領会津藩預地となる。明和五年(一七六八)幕府直轄領、天明七年(一七八七)下村藩領、文政六年(一八二三)幕府領会津藩預地、同一一年からは幕府直轄領として幕末に至る。天明八年の巡見使案内手鑑(福島市史)では高一七七石余、家数九(本百姓八・寺一)、男三〇・女一七・出家一、馬六。名主は七郎右衛門であった。延享四年(一七四七)当地方に下総関宿藩領が設定されると、当村常栄じようえい寺の屋敷に同藩の陣屋が置かれ、代官と手代二名が派遣された。


内町村
うちまちむら

[現在地名]見附市内町・もと町一―二丁目・ほん町一丁目・同三―四丁目・学校がつこう町一―二丁目・しん町一丁目・本所ほんじよ一―二丁目・嶺崎みねざき一丁目・月見台つきみだい一丁目

戸代とだい新田村の東。東山丘陵のしろ山南側の沢に位置する。沢の奥には蛇山じややま堤・大平おおひら堤・大谷おおたに堤・深沢ふかざわ堤・円明寺えんみようじ堤がある。城山山頂の見附城南麓に形成された城下町であったと考えられる。元町の集落は、東方島切窪しまきりくぼへの矢櫃やびつ越の道と東山丘陵西麓沿いを北へ大面おおも(現南蒲原郡栄町)へ至る道とが交差する。


内町村
うちまちむら

[現在地名]いわき市内郷内町うちごううちまち

しん川とその支流みや川に挟まれ、新川の南東対岸はつづら村、北東高坂たかさか村、西と南は白水しらみず村。磐前いわさき郡に属した。近世は磐城平藩領。元禄郷帳では内町村は高三四〇石余、金坂かなさか新田は高七九石余。天保郷帳には「古者 内町村・金坂新田弐ケ村」と注記される。延享四年(一七四七)の村明細帳(内藤家文書)によれば、本田高三三八石余・新高八五石余、家数四九(うち百姓二一・水呑二六)、人数二〇七、馬一〇。


内町村
うちまちむら

[現在地名]豊岡市内町

つじ村の北東に位置し、北は福成寺ふくじようじ村、東は大谷おおたに村。奈佐なさ川が流れる。室町時代以降、奈佐氏の被官石谷氏の城下として集落を形成、地名を生んだと伝える。江戸時代の領主の変遷は栃江とちえ村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高二二七石余(二三七石余の誤記か)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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