前橋城下(読み)まえばしじようか

日本歴史地名大系 「前橋城下」の解説

前橋城下
まえばしじようか

近世の平岩氏・酒井氏・松平氏の城下町。天正一八年(一五九〇)徳川家康は関東入国に際し、平岩親吉を前橋に三万三千石(一説に三万石)で封じた。しかし平岩氏の前橋支配は短期間で終わり、慶長六年(一六〇一)武蔵川越かわごえ(現埼玉県川越市)から酒井重忠が三万三千石で入封、以後九代にわたり酒井氏の支配が続いた。酒井氏は徳川氏と同祖と伝える譜代筆頭の家柄で、幕府要職を占め、二代忠世の代に八万五千石、一二万二千五〇〇石と加増、三代忠行の代に一五万二千五〇〇石となる。四代忠清は大老となり下馬将軍とまでよばれるほどの権勢をもち、この時に前橋藩一五万石、関東譜代藩のうちの最高の格式が確立した。寛延二年(一七四九)酒井氏は姫路ひめじ(現兵庫県姫路市)に去り、代わって姫路から松平朝矩が一五万石で入封した。松平朝矩は祖を徳川家康の第二子結城秀康とする名門。しかし前橋城本丸が利根川激流に破壊され、城の面目が保てなくなり、明和四年(一七六七)松平氏は川越へ居城を移した。このため前橋城は廃城となり、当地方の支配は前橋に置かれた陣屋にゆだねられた。藩主藩士に去られた前橋町は寂れ、疲弊ははなはだしかった。松平氏は川越からの移封を度々画策し、姫路転封、前橋復帰、出羽庄内しようない(現山形県鶴岡市)への移転を願出たが、結局実現せず、文久三年(一八六三)前橋城再築に着工、慶応三年(一八六七)完成して帰城した。

つまり前橋城下の歴史は四期に画されるといえよう。第一の時期は厩橋とよばれた戦国時代以降、平岩氏支配の時代までで、この時期の様子はほとんど不明である。第二期は酒井氏入封から明和四年松平氏の川越移転まで。第三期は前橋が陣屋支配であった近世後期で、飢饉や災害ともあいまって町は最も衰えた。第四期はきわめて短いが、城の再築がなって慶応三年松平氏が前橋へ復帰してからの時期である。

〔町の配置〕

城内東端の大手門を出ると南北の連雀れんじやく町がある。その北側に札の辻があり、東へほん町、北へくわ町と続く。本町が沼田街道の出発点で、沼田藩主の参勤交代路でもあったため、本陣・問屋・旅宿八軒が置かれていた。沼田街道は本町から札の辻で右折、桑町を通り横山よこやま(横町)を左折、再び右折してたつ町を通り抜け、広瀬ひろせ川を厩橋(明治四三年以前は郡界橋)で渡り、こまざわ町へ抜ける。細ヶ沢町を突当り、左のむかい町へと続く。向町の西端から岩神いわがみ村域に入り、利根川沿いに北上する。向町の延長に大渡おおわたり関があり、利根川対岸へは大渡渡で渡る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の前橋城下の言及

【前橋[市]】より

…東京から100km圏にあり,隣接する高崎・伊勢崎両市とともに首都圏の北西部の中心として発展している。【有末 武夫】
[前橋城下]
 上野国群馬郡の城下町。城は15世紀末ごろ長野氏の築城と伝え,戦国時代末期には上杉・後北条両氏の攻防の焦点であった。…

※「前橋城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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