日本歴史地名大系 「加能越三ヶ国高辻帳原稿」の解説
加能越三ヶ国高辻帳原稿(正保郷帳)
かのうえつさんかこくたかつじちようげんこう
一一冊
原本 加越能文庫
解説 正保国絵図作製に伴い正保三年八月幕府に提出された郷帳の下書。江沼郡を除く加越能三ヵ国一一郡分がある。郷帳作成にあたり、加賀藩内では十村組ごとに高・物成などの調査が行われ、各村々の本田・新田の高・物成高、田・畑面積などの調査書上が同二年八―九月藩庁に提出された。加賀藩は加賀・能登・越中三国の国絵図調製と郷帳作成を命ぜられていたので、白山麓の幕府領、能登沿岸土方領についても本田・新田の高・物成などの書上が加賀藩に同じ頃提出された。これらの基礎資料をもとに、一定の加工を施して幕府の要求する体裁の郷帳正本を作成する過程で本書が作られた。加工の原則は、(一)本田免二ツ五歩以下の場合高を半分にし免を二倍にする操作、(二)二〇石以下の新田高と免五歩以下の新田は記載しない、(三)村高の小さな村を二または三ヵ村程度合せ、そのうちの一ヵ村に他の村高をすべて組込む加工などである。これらの加工により村名や村高などが記載されない村が多数生じ、高が半分にされた村もあった。このような加工の実例を本書から確認できるのであるが、村寄や村高半分加工を行った個所の貼紙の下をみることができ、加工以前の村名・村高・物成が判明するものも多い。しかし本書記載以前に村寄・高寄がなされており、複数の村名で一本の高・物成しか記載しない例も多かったので、村寄以前の高・物成がわからない事例もある。正保郷帳作成の基礎になった正保二年の高・物成高調査では、日損・水損や持山などについても書上げさせたと思われ、実態をかなり正確に掌握したものといえる。なお同年調査による加賀藩領の村高合計は、寛永一一年の領知朱印高一一九万二千石余と比べ約六万石余多かった。そのため藩の首脳は何とか一一九万石に近づけるべく、前記の高半分加工を行ったり、村数の削減などを行ったのである。その結果差額を約三万四千石まで縮め、この差を寛文印知の際に籠高と称し、公認された誤差とみなされ、加賀藩・富山藩・大聖寺藩合せて従来と同じ一一九万石余の朱印状を得ている。この後天保郷帳までの高辻帳と郷帳はすべて正保郷帳正本の写か、これを基準に机上の操作を加えたものとなり、実態的な高・物成とまったく遊離し、将軍代替り時の領知朱印状を得るための形式的帳簿になっていく。
加能越三ヶ国高辻帳原稿(正保郷帳)
かのうえつさんかこくたかつじちようげんこう
一一冊
原本 加越能文庫
解説 正保国絵図作製に伴い、正保三年八月幕府に提出された郷帳の下書。郷帳作成にあたり加賀藩領では十村組ごとに高・物成などの調査が行われ、各村々の本田・新田の高・物成高、田畑の面積などが同二年八―九月藩庁に提出された。加賀藩には加賀・能登・越中三ヵ国の国絵図と郷帳の作成が命じられたため、幕府の要求する体裁の郷帳とするため加工を加えた。加工の原則は、(一)本田免二ツ五歩以下の場合、高を半分にし免を二倍にする、(二)二〇石以下の新田、免五歩以下の新田は記載しない、(三)村高の小さな村を二、三ヵ村合せ、一ヵ村の村高に組込むなどである。このような加工を本書の貼紙や記載事例から知ることができるが、本書作成以前に村寄や高寄が行われている場合もある。この加工は寛永一一年の領知朱印高一一九万二千石余に近づけるべく行われたもので,一二二万六千石余と約三万四千石多く書上げられた。貼札が多く複雑であるが、加工以前の村の実態、加工の過程がわかり貴重である。本高は慶長一〇年総検地を反映したものであろう。越中国分は第八冊利波郡、第九冊婦負郡、第一〇冊中郡・氷見庄、第一一冊下新川郡之内飛騨守領分となっており、新川郡分は加越国高物成帳のうち第二冊新川郡にある。
活字本 「砺波市史」資料編近世(利波郡のみ表化)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報