デジタル大辞泉
「加藤千蔭」の意味・読み・例文・類語
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かとう‐ちかげ【加藤千蔭】
- 江戸中期の歌人、国学者。枝直(えなお)の子。姓、橘。号は芳宜園(はぎぞの)、朮園(うけらぞの)など。江戸の町与力。国学と和歌を賀茂真淵に学ぶ。歌風は優麗温雅で古今調に近く、村田春海とともに江戸派の中心となる。書家としては千蔭流の祖となる。家集「うけらが花」、著「万葉集略解」など。享保二〇~文化五年(一七三五‐一八〇八)
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加藤千蔭
かとうちかげ
(1735―1808)
江戸後期の歌人、国学者。本姓は橘(たちばな)、名を佐芳(すけよし)、のちに要人(かなめ)、通称を又左衛門、号を芳宜園(はぎその)・朮園(うけらその)、狂号を橘八衢(やちまた)・耳梨山人(みみなしさんじん)という。江戸町奉行(ぶぎょう)与力加藤枝直(えなお)の子として生まれ、職を継いだ。和歌と国学を父や賀茂真淵(かもまぶち)に学び、村田春海(はるみ)とともに、真淵没後の江戸古学派に重きをなした。優麗温雅な歌風で、有名な歌に「隅田川簑(みの)着て下す筏士(いかだし)にかすむあしたの雨をこそ知れ」がある。家集を『うけらが花』(1802)という。寛政(かんせい)の改革にあたって、驕奢(きょうしゃ)な生活をとがめられ、減俸のうえ閉門100日という処罰を受けた。これによる閑暇をきっかけに、村田春海や本居宣長(もとおりのりなが)らの助力を得て、『万葉集略解(りゃくげ)』(1796~1812)を著した。この書は穏健平易な万葉注釈書として大いに普及した。書を滝本(たきもと)松花堂に学び、書家としても盛名を得て千蔭流といわれ、吉原の遊女たちも多く書の門人となったほか、曲亭馬琴(ばきん)も千蔭に書を学んだという。文化(ぶんか)5年9月2日没。東京・両国の回向院(えこういん)に墓がある。
[揖斐 高]
『辻森秀英著『近世後期歌壇の研究』(1978・桜楓社)』
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加藤千蔭 (かとうちかげ)
生没年:1735-1808(享保20-文化5)
江戸中期から後期にかけての歌人,国学者。加藤枝直(えなお)の三男。加藤は通姓で,正式には橘氏。通称常太郎のち又左衛門。朮園(うけらぞの)などと号す。近世および近代の《万葉集》普及に多大の力を持った《万葉集略解(りやくげ)》の著者。10歳で賀茂真淵に入門。村田春海(はるみ)と並んで真淵の門派県門(けんもん)の双璧と称された。家職を継ぎ,町奉行吟味役,田沼意次の御用人などを歴任した。歌風は,真淵門下でありながら,新古今風の繊細さに特色を示し,家集に《うけらが花》がある。また,かな書にもすぐれ,千蔭流を開いた。
執筆者:佐佐木 幸綱
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加藤千蔭【かとうちかげ】
江戸中・後期の歌人,国学者。本姓橘,号芳宜園(はぎぞの),朮園(うけらその)。父は国学者の加藤枝直(えなお)。父の跡を継ぎ町奉行与力を勤めた。賀茂真淵門下で村田春海(はるみ)と並ぶ江戸派の代表的歌人として知られ,優美典雅な歌風である。書にもすぐれ,千蔭流の祖。主著は《万葉集略解》,家集に《うけらが花》。
→関連項目擬古文|中島広足
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加藤千蔭
かとうちかげ
[生]享保20(1735).江戸
[没]文化5(1808).9.2. 江戸
江戸時代中期の歌人,国学者,書家。本姓,橘氏。通称,又左衛門。家号,芳宜園 (はぎぞの) ,朮園 (うけらぞの) 。狂歌名,橘八衢 (やちまた) 。加藤枝直の子。代々,江戸八丁堀の与力。賀茂真淵の門に入り,国学,和歌を志した。師の万葉風に必ずしも従わず,古今,新古今風の典雅優美な歌風で,村田春海とともに,いわゆる江戸派の代表的歌人とされ,「歌は千蔭,文は春海」と称された。繊細な都会的感覚の叙景歌にすぐれたものをみせる。国学者としても『万葉集』研究に功績があり,松平定信の治政下,100日間の閉門を命じられた際,『万葉集略解』 (20巻,1796~1812) を著わした。書にも長じ,仮名書きにすぐれ,千蔭流の祖。狂歌もよくし,『万載狂歌集』の跋を記している。家集『うけらが花』 (02) 。
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加藤千蔭
かとうちかげ
1735.3.9~1808.9.2
江戸中・後期の国学者。加藤枝直(えなお)の子。姓は橘。通称は又左衛門,字は常世麿(とこよまろ),号は𦬸園(うけらぞの)・芳宜園(はぎぞの)など。1788年(天明8)町奉行与力を辞したのちは学芸に専念した。若くして諸芸を学んだが,とくに国典を賀茂真淵に学び,退隠後,師の業をうけ,かつ本居宣長の協力を得て「万葉集略解(りゃくげ)」を著作,万葉研究の普及に資した。歌風は古今集前後を理想とする高調典雅なもので,村田春海(はるみ)とともに並称された。書は松花堂昭乗にならって和様書家として一家をなし,仮名書の法帖(ほうじょう)を数多く出版した。絵ははじめ建部綾足(たけべあやたり)に漢画を学んだが,のち大和絵風に転じた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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加藤千蔭 かとう-ちかげ
1735-1808 江戸時代中期-後期の歌人,国学者。
享保(きょうほう)20年3月9日生まれ。加藤枝直の3男。賀茂真淵(かもの-まぶち)に入門。歌風は平明,優雅で村田春海(はるみ)とともに江戸派を代表した。書は千蔭流とよばれ,画や狂歌もたくみであった。文化5年9月2日死去。74歳。江戸出身。本姓は橘。字(あざな)は常世麿。通称は又左衛門。号は芳宜園(はぎぞの),朮園(うけらぞの),耳梨山人。著作に「万葉集略解(りゃくげ)」,家集に「うけらが花」など。
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加藤千蔭
かとうちかげ
1735〜1808
江戸後期の歌人・国学者
本姓橘,通称要女 (かなめ) ,号は芳宜園 (はぎぞの) ・朮園 (うけらぞの) など。江戸の人。賀茂真淵 (まぶち) の門に入ったが,歌風は万葉調より古今風に近かった。村田春海とともに江戸派の双璧といわれた。書もよくし,千蔭流の祖。主著に『万葉集略解』,家集『うけらが花』など。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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加藤千蔭 (かとうちかげ)
生年月日:1735年2月9日
江戸時代中期;後期の歌人;国学者
1808年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の加藤千蔭の言及
【万葉集略解】より
…注釈書。橘千蔭([加藤千蔭])著。1800年(寛政12)成立。…
※「加藤千蔭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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