福井県福井市の中世要衝地。足羽(あすわ)御厨の北庄であったことに由来するという。福井平野の中央に位置し,すでに《太平記》に足羽七城の一つとして記されている。戦国時代,朝倉氏は北陸街道を扼(やく)するこの地に一族を配置し,領国経営を進めた。1573年(天正1)朝倉氏が滅亡すると織田信長は北ノ庄三人衆として木下祐久,明智光秀,津田元嘉を配し,75年には柴田勝家を配置して北陸経営の拠点とした。勝家は九重の天守をもつ北ノ庄城を築くが,83年豊臣秀吉に滅ぼされる。以後丹羽長秀,堀秀政,同秀治,青木一矩が相ついでここに入る。関ヶ原の戦で一矩が西軍として敗れると翌1601年(慶長6)徳川家康の次男結城秀康が入封し,68万石を領した。秀康の跡は息忠直が継ぐが,《忠直卿行状記》に記すような乱行のため豊後に流された。24年(寛永1)忠直の跡を継いだ忠昌のとき,北ノ庄の名は福居,のちに福井と改められ,以後城下町として栄えた。
執筆者:水藤 真
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…また大野郡は金森長近,原政茂,敦賀郡は武藤舜秀が統治した。勝家は北国の重鎮として北ノ庄(現,福井市)に築城して越後の上杉氏を制御し,加越の一揆徒党平定の任に当たった。また九頭竜川には舟橋を架設し,南条郡今庄より板取を経て近江に出るため栃ノ木峠を開削し,また新田開発を進め,諸方に検地を行い,刀狩を実施するなど民政にも留意した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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