北尾村(読み)きたおむら

日本歴史地名大系 「北尾村」の解説

北尾村
きたおむら

[現在地名]淀江福岡ふくおか

淀江村の東、孝霊こうれい山の北西麓に位置する。村名は同山の北尾根にあることによるという。拝領高一二九石余、本免四ツ。佐橋氏の給地(給人所付帳)。藪役銀七匁が課されていた(藩史)。寛永一〇年(一六三三)の役屋数六(「田畑地詰帳」宇田川村史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一五三石余、竈数一八。

宝暦三年(一七五三)年貢米の納入先が御来屋みくりや御蔵(現名和町)から米子御蔵に変更になったため安原やすはら(現大山町)、北尾・寺内てらうち稲吉いなよし高井谷たかいだに中西尾なかにしお外構とがまえ(富繁)福井ふくい福頼ふくより西尾原にしおはら本宮ほんぐうの一一ヵ村の庄屋は連名で、従来どおり船積みによる御来屋御蔵納を嘆願して許された(在方諸事控)

北尾村
きたおむら

[現在地名]北条町北尾

北条川を挟んで北は弓原ゆみはら村。南のしま村、西のまがり村を含めた一帯は山田やまだ別宮の領内であったと推定される。拝領高は四三二石余、本免は四ツ九分。藪役銀一六匁を課されており(藩史)、伊吹氏・大場氏・菅氏・加藤氏・荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。宝永三年(一七〇六)の田地地詰帳(北条町歴史民俗資料館蔵)によれば田高四三四石余(二七町二反余)・畑高三九石余(四町九反余)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高四八〇石余、竈数二〇余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四九一石余、竈数五一。

尾村
きたくずおむら

[現在地名]山添村大字葛尾

名張なばり川・笠間かさま川合流地岩屋いわや村東北に立地。伊賀葛尾くずお(現三重県名張市)と接続する。石器・土錘などが出土、縄文遺跡候補地として有力視されている。中世板蠅いたばえ杣から搬出する木材は葛尾浜くずおはまから木津きづ(現京都府相楽郡)へ流筏した。

近世初期、はた郷の内。慶長郷帳には「葛尾」とあり、村高三七・七石。

北尾村
きたおむら

[現在地名]大府市北崎きたさき

東は境川で、東浦ひがしうら街道が村内を南北に通じる。南と西は横根よこね村に接する。「寛文覚書」によれば、概高五九六石五斗余、田方三四町九反余・畑方七町三反余、家数六一・人数二六五、鳴海なるみ宿(現名古屋市)の寄付村で人馬役を負担した。「徇行記」には村内の川として、皆瀬みなせ川・大坪おおつぼ川・ぜぜ川をあげ、「ゼセ川ノ南北ニ民屋アリ(中略)小百姓ハカリ也、此村田面モ近崎同様ニ水落アシク稲粱傷敗スル事アリ」という。

北尾村
きたおむら

[現在地名]北茂安町大字白壁しらかべ字北尾

千栗ちりく八幡宮領。「神領村」ともいうと郷村帳にみえる。白壁村の北方丘陵地にあるが、白壁村の表高に含まれる枝村か否かはわからない。郷村帳によっては大塚おおつか村の内となっており、その大塚村も高付けの村ではなく、どの村の内かを示した郷村帳も見当らない。

村名は慶長三年(一五九八)鍋島直茂社領寄進状(鍋島家文書)にみえる。直茂によって北尾村田畑一七町一段三畝九歩分米二〇〇石が千栗八幡宮に寄進されたのである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報