日本の城がわかる事典 「館林城」の解説 たてばやしじょう【館林城】 群馬県館林市にあった戦国時代から江戸時代にかけての平城(ひらじろ)。築城時期、築城者には諸説あるが、1530年(享禄3)に、鎌倉時代以来一帯を領有していた赤井氏の当主の照光が築城を開始し、翌年完成して、その居城としたともいわれる。1562年(永禄5)の上杉謙信の関東出陣の際、北条氏に従っていた赤井氏は戦うことなく降伏・開城して忍城(埼玉県行田市)に逃れ、以後、足利長尾氏(長尾景長)を城主とする越後上杉氏の属城となり、謙信の関東出兵に際しては、前橋城(厩橋城)とともに拠点となった。景長の死後、金山城の由良成繁の三男顕長が養子に入り家督を相続したが、謙信の死後、館林城はたびたび武田氏や北条氏の攻撃を受けた。1585年(天正13)、顕長は兄の金山城主由良国繁とともに北条氏の招きに応じて小田原城(神奈川県小田原市)を訪れ、北条氏の謀略により和議を結んだが、その後これを拒んだ顕長は北条勢2万の攻撃を受けている。顕長はこれを撃退し、城を守ったものの、1588年(天正16)に北条氏により岩井山城に移され、これをもって館林城は上杉方から北条方の城となった。1590年(天正18)の小田原の役(豊臣秀吉の北条氏攻め)で開城し、徳川家康が関東に国替えになった際に、館林城には徳川四天王の一人の榊原康政が10万石で入城した。1625年(寛永2)、のちの5代将軍徳川綱吉が25万石で館林に入封したことから、館林は幕府より重視された。江戸時代初期の館林城は、本丸に3層の天守と1基の二重櫓(にじゅうやぐら)、御厩曲輪(おうまやぐるわ)(のちの南曲輪)に2基の二重櫓を持つ総構えの城だったが、1683年(天和3)の徳川徳松の死去に伴い廃藩となり、館林城も廃城となった。その後、1707年(宝永4)に松平(越智)清武が入封すると、かつての城の規模を縮小して再興され、本丸と南曲輪と三の丸にそれぞれ二重櫓を備えた城となった。これらの建造物の大半は、1874年(明治7)に焼失してしまったが、本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が現存している。現在、城跡は市役所、文化会館、市立図書館、向井千秋記念子ども科学館などの敷地や公園になっており、城壁や土橋門が復元されている。東武鉄道伊勢崎線館林駅から徒歩約15分。◇尾曳(おびき)城とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報