小倉宮(読み)おぐらのみや

改訂新版 世界大百科事典 「小倉宮」の意味・わかりやすい解説

小倉宮 (おぐらのみや)
生没年:?-1443(嘉吉3)

室町初期の皇族異説もあるが,通常は南朝最後の天皇後亀山の皇子良泰親王の子聖承(俗名泰仁)をさす。南北両朝の合一後,嵯峨小倉山下に居住したため小倉宮と称された。1428年(正長1),講和条件の不履行にともなう南朝後裔の不遇を理由に京を出奔伊勢国司として一志郡多気に拠る北畠満雅のもとに走った。満雅はこの聖承を擁して幕府反旗をひるがえしたが敗死し,聖承は30年(永享2)に帰洛した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小倉宮」の意味・わかりやすい解説

小倉宮
おぐらのみや
(?―1443)

第99代後亀山(ごかめやま)天皇の皇子恒敦(つねあつ)親王の王子。法名聖承(せいしょう)。嵯峨(さが)小倉山下に住したのでこの称を得たものと思われる。後亀山京都還幸の条件中に両統迭立(てつりつ)の一条があったが、称光(しょうこう)天皇崩御にあたり、室町幕府はまた持明院(じみょういん)系の後花園(ごはなぞの)天皇を擁立した。聖承は子教尊(きょうそん)をたてる意があったので、1428年(正長1)伊勢(いせ)国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)を頼って挙兵したが、利を失って満雅戦死、聖承も帰洛(きらく)した。将軍足利義教(あしかがよしのり)は聖承を厚遇し、その子教尊を猶子(ゆうし)として出家させ勧修寺(かじゅうじ)に入れた。34年(永享6)出家、聖承となるが、その後の事歴は不明。俗説では後亀山天皇の皇子、また良泰(よしやす)親王などともいわれる。

[小野信二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小倉宮」の意味・わかりやすい解説

小倉宮
おぐらのみや

[生]?
[没]嘉吉3(1443).5.7. 京都
後亀山天皇の皇子恒敦親王の王子。一般に南朝の子孫汎称のようにも用いられた。嵯峨小倉に住んでいたのでこの名がある。将軍足利義持が両統迭立約定にそむいて後花園天皇を擁立したため,正長1 (1428) 年伊勢国司北畠満雅を頼って嵯峨を出奔,満雅は小倉宮を奉じて挙兵したが,幕府軍に攻められて敗死し,宮も嵯峨に帰った。そののちも北畠教具とともに抗戦を続けたが,幕府との間に妥協があり,永享2 (30) 年宮の処遇が幕府によって定められた。同6年に出家し聖承と号した。その子教尊王もまた挙兵。さらに下って応仁の乱に南朝の遺臣が小倉宮の王子を奉じて挙兵するという事態もあった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小倉宮」の解説

小倉宮 おぐらのみや

?-1443 室町時代,恒敦(つねあつ)親王の王子。
後亀山(ごかめやま)天皇の孫。京都の嵯峨(さが)小倉にすむ。南北両朝の合意を無視した皇位継承に反対し,正長(しょうちょう)元年伊勢(いせ)国司北畠満雅をたよって挙兵したが,幕府軍に敗れ,やがて京都にもどる。永享6年出家して聖承と称した。嘉吉(かきつ)3年5月7日死去。樋口宮とも。

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