朝日日本歴史人物事典 「小倉宮」の解説
小倉宮
生年:生年不詳
室町前期の皇族。後亀山天皇の皇子恒敦親王の子。出家して聖承と名乗ったが俗名は不明。また樋口宮ともいう。父恒敦親王も小倉宮と称されるが,個人としてはこの聖承を指す。小倉宮の由来は京都郊外の嵯峨小倉の地に居住していたためである。正長1(1428)年の後花園天皇の践祚に当たり,皇位継承の望みがたたれた聖承は嵯峨の地を出奔し伊勢国(三重県)の北畠満雅を頼った。挙兵した北畠氏は将軍足利義教の命によって土岐持頼の討伐にあったが,聖承は懐柔によって数年後に帰京した。永享6(1434)年,出家し聖承と名乗る。この小倉宮の子教尊は,このころ将軍義教の猶子となり勧修寺に入室して出家していたが,嘉吉3(1443)年南朝の残党が土御門内裏を襲撃し神器を奪い取ろうとした禁闕の変では,教尊も同調者として捕らえられ,文安年中(1444~49)には隠岐島に配流され,その地で没した。父小倉宮も,この禁闕の変の年に没するなど,南朝の皇胤として父子2代にわたって波瀾に満ちた生涯であった。<参考文献>『増補南北朝史論』(村田正志著作集1巻)
(小森正明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報