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両統迭立 りょうとうてつりつ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

両統迭立
りょうとうてつりつ

鎌倉時代後半,後嵯峨天皇の嫡子後深草天皇の子孫 (→持明院統 ) と次子亀山天皇の子孫 (→大覚寺統 ) の2系統が並び立ち,交互皇位についたこと。後嵯峨,後深草のあと,亀山とその子後宇多が相次いで皇位についた。次いで後深草の子伏見とさらにその子後伏見が立って持明院統が2代続いたあと,幕府の斡旋によって大覚寺統の後二条が即位した。両統は皇位をめぐって抗争し,承久の乱以後皇位に関して重大な影響力を有した幕府に盛んに働きかけた。幕府は後二条の皇太子決定に際して両統が交互に天皇を立てること (両統迭立) を適正とした。その後も両統の抗争は激化したので,幕府はこの問題に関与して決定に苦しむ事態を避けるために不介入の方針を定め,文保1 (1317) 年皇位の問題は両統の協議によるべきことを申出た (文保の和談) 。しかし両統間の協議は困難でこのあとも幕府が介入せざるをえなかった。また延元1=建武3 (36) 年以降大覚寺統の南朝と持明院統の北朝とが並存し (南北朝時代) ,元中9=明徳3 (92) 年両朝の和議が成ったとき,皇位継承は両統迭立を条件としたが,室町幕府によりこの条件は実行されず,持明院統一統の世となった。

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百科事典マイペディアの解説

両統迭立【りょうとうてつりつ】

鎌倉時代後期,後嵯峨天皇の後,持明院統大覚寺統とが対立,鎌倉幕府の斡旋(あっせん)で両統が交互に即位したこと。1317年(文保1年)践祚(せんそ)・立坊は両統の和談によることとされたが(文保の和談),対立のまま南北朝時代に入った。
→関連項目勘仲記玉葉和歌集

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世界大百科事典 第2版の解説

りょうとうてつりつ【両統迭立】

鎌倉時代後半,天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争った時期に,妥協策として両統から交互に皇位につくとされた原則。後嵯峨法皇は第3子後深草上皇よりも第7子亀山天皇を愛し,後深草の皇子熙仁親王を退けて亀山の皇子世仁親王を皇太子に立てたが,承久の乱(1221)後鎌倉幕府が皇位継承問題に干渉することが多く,それを顧慮した後嵯峨法皇は死に際して後深草,亀山のいずれを〈治天の君〉(天皇家の惣領)とすべきかの決定を幕府の指示にゆだねた。

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大辞林 第三版の解説

りょうとうてつりつ【両統迭立】

鎌倉後期、後嵯峨天皇のあとの皇統が大覚寺統(亀山天皇の血統、のちの南朝)と持明院統(後深草天皇の血統、のちの北朝)との二つに分かれ、交互に皇位についたこと。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

両統迭立
りょうとうてつりつ

鎌倉時代後半、後深草(ごふかくさ)天皇系(持明院(じみょういん)統)と亀山(かめやま)天皇系(大覚寺(だいかくじ)統)の両統から交互に皇位につくとされた皇位継承の原則。後嵯峨(ごさが)法皇の死(1272)後、法皇の2子後深草上皇と亀山天皇との間に、いずれの系統が皇位を継承するかについての対立が生じ、これに皇室領荘園(しょうえん)をめぐる対立も加わって天皇家は二つに分裂した。承久(じょうきゅう)の乱(1221)以降皇位継承問題に干渉し、大きな発言力をもっていた鎌倉幕府は、両統の勢力の均衡を重視し、亀山天皇の皇子世仁(よひと)親王が践祚(せんそ)(後宇多(ごうだ)天皇)した際、執権北条時宗(ときむね)の斡旋(あっせん)で持明院統の煕仁(ひろひと)親王(伏見(ふしみ)天皇)を皇太子と定めたが、これが両統迭立の端緒となった。しかし、この原則は明確に規定されたものではなく、その後も皇位継承をめぐって対立が続いたうえ、室町院領などの皇室領荘園をめぐる争いなどから、両統の対立はしだいに深まっていった。大覚寺統の後二条(ごにじょう)天皇の死(1308)後、持明院統の後伏見(ごふしみ)上皇の弟富仁(とみひと)親王が践祚(花園(はなぞの)天皇)し、後二条天皇の弟尊治(たかはる)親王(後醍醐(ごだいご)天皇)が皇太子となったが、このとき、持明院統の皇位は後伏見系に、大覚寺統の皇位は後二条系にそれぞれ将来は伝えられるべきことが定められ、そのため持明院統が後伏見系と花園系に、大覚寺統が後二条系と後醍醐系にそれぞれ再分裂する可能性が生じた。こうした事態を憂慮するとともに両統の抗争に巻き込まれることを嫌った幕府は、1317年(文保1)に使者を上京させて両統の協議による皇位継承ルールの画定を促した(文保(ぶんぽう)の和談)。しかし協議は難航し、幕府から提出された10年交代の両統迭立を軸とする妥協案も、細部について合意をみず、明確な決着がつかぬままに翌年花園天皇は幕府の意を受けて尊治親王に譲位した。後醍醐天皇は3年後に親政を実現し、積極的な政治行動を展開して、やがて幕府との間に軋轢(あつれき)を生じた。一方この間に持明院統はしだいに幕府に接近していった。元弘(げんこう)の変(1331)で後醍醐天皇が捕らえられると、後伏見天皇の皇子量仁(ときひと)親王が六波羅探題(ろくはらたんだい)に擁立されて践祚(光厳(こうごん)天皇)し、光厳天皇は建武(けんむ)新政政府の成立によって退位したが、やがて足利尊氏(あしかがたかうじ)の離反で建武政府が倒壊すると、持明院統は足利氏に擁立され(北朝)、大覚寺統(南朝)と完全に対立するに至り、両統の対立は南北両朝の対立に移行した。1392年(明徳3・元中9)の両朝合一に際しては、ふたたび両統迭立とすることが条件とされたが、実際にはこの条件は守られず、持明院統のみが皇位を継承した。[新田英治]

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世界大百科事典内の両統迭立の言及

【持明院統】より

…このうち後深草上皇の子伏見上皇が持明院(現在の京都市上京区安楽小路町にあった)を居所としたことからこの皇統を持明院統とよび,これに対して亀山天皇系が大覚寺統とよばれている。皇位継承については鎌倉幕府の斡旋で両統交互に皇位につく両統迭立が原則とされたが,長講堂領などの皇室領荘園をめぐって両統の対立はしだいに深まっていった。文保の和談(1317)以降は,大覚寺統の後醍醐天皇の強烈な個性に対して持明院統は政争の表面に立つことが比較的少なく,武家政権に利用される形となって,北条氏に擁立された光厳天皇から足利氏に擁立された北朝へとその系譜はつながっていく。…

【大覚寺統】より

…後深草天皇の系統を持明院統とよぶのに対し,亀山天皇の皇子後宇多上皇が嵯峨の大覚寺を再興して〈大覚寺殿〉と称したことから,この皇統を大覚寺統とよぶ。後嵯峨法皇の死(1272)後生じた皇位継承をめぐる争いに加え,皇室領荘園の領有をめぐる抗争から天皇家は二つに分裂し,鎌倉幕府の斡旋で両統から交互に皇位につく,いわゆる両統迭立を原則として,鎌倉時代後半を通じ両統の勢力均衡が保たれつつ対立がつづいた。文保の和談以降,大覚寺統の後醍醐天皇は天皇親政を積極的に推進してしだいに幕府と対立し,幕府倒壊後,建武中興政府を開いたが,やがて離反した足利尊氏のために京都を追われ,尊氏に擁立された北朝(持明院統)に対抗して,大和の吉野に拠って南朝をたてた。…

【文保の和談】より

…幕府は,皇位をめぐる両統の抗争にまきこまれるのを回避するため,1317年(文保1)使者を上京させて,皇位継承のルールを両統の協議によって定めることを促した。しかし,両統による協議が難航したため,幕府は,(1)持明院統の花園天皇から大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)への譲位,(2)在位年数を10年とした両統迭立,(3)皇太子を大覚寺統の邦良親王とし,その次を持明院統の量仁親王とする,の3点を提案したが,第3点が大覚寺統が2代つづく点で第2点の両統迭立の原則に背くことから持明院統側が難色を示し,結局,皇位継承に関する明確なルールは画定されないままに終わった。この結果,幕府はひきつづき皇位継承問題に介入せざるをえないこととなり,花園天皇は翌年幕府の奏請に従って尊治親王に譲位した。…

※「両統迭立」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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