鎌倉時代後半,天皇家が後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統に分裂して皇位継承を争った時期に,妥協策として両統から交互に皇位につくとされた原則。後嵯峨法皇は第3子後深草上皇よりも第7子亀山天皇を愛し,後深草の皇子煕仁親王を退けて亀山の皇子世仁親王を皇太子に立てたが,承久の乱(1221)後鎌倉幕府が皇位継承問題に干渉することが多く,それを顧慮した後嵯峨法皇は死に際して後深草,亀山のいずれを〈治天の君〉(天皇家の惣領)とすべきかの決定を幕府の指示にゆだねた。しかし幕府は逆に法皇の内意を問い,法皇の中宮であった大宮院の証言により亀山天皇の親政と決定された。一方,皇室領荘園のうち長講堂領が持明院統に伝領されたほかは,八条院領,室町院領などの帰属があいまいなままに残され,その帰属をめぐって両統の間に対立が生じ,天皇家を分裂させることとなった。亀山天皇は皇子世仁親王(後宇多天皇)に位を譲ったが,その際後深草上皇の意をおもんぱかった幕府の執権北条時宗の斡旋によって,後深草の皇子熙仁親王が亀山天皇の猶子として皇太子に立った。これが両統迭立の端緒となったのである。
しかしこの原則が両統の間で確認されたのではなく,この後皇位継承や皇室領荘園の帰属をめぐって両統の間に抗争が展開されることとなる。大覚寺統の後宇多天皇のあとは持明院統の伏見天皇,ついでその皇子後伏見天皇が立ち,そのあと大覚寺統の後二条天皇が皇位についたが,この間鎌倉幕府が一貫して皇位継承問題に大きな発言力をもち,しかも両統の勢力均衡,両統との妥協を重視したため,両統の対立・抗争はいっそう拍車をかけられることとなった。また長講堂領荘園を伝領した持明院統に対して,大覚寺統は八条院領荘園を入手し,さらに室町院(暉子内親王)の死後相続人が定まっていなかった室町院領荘園をめぐって両統は激しく対立し,結局幕府の仲介でこれを両統で折半することとなったが,両統の間の溝はさらに深まった。後二条天皇の死後は,両統迭立の原則から持明院統の後伏見上皇の弟富仁親王(花園天皇)が皇位につき,後二条天皇の弟尊治親王(後醍醐天皇)が皇太子となった。このとき,持明院統の皇位は後伏見系に,大覚寺統の皇位は後二条系にそれぞれ将来は伝えられるべきことが定められており,持明院統が後伏見系と花園系に,大覚寺統が後二条系と後醍醐系に再分裂し,両統分立が四統分立になる兆候が見られた。
こうした状況を憂慮し,また皇室内部の対立・抗争にまきこまれることを懸念した幕府は,1317年(文保1)使者を上洛させて両統の協議による皇位継承ルールの画定を促した(文保の和談)。しかし協議は難航し,幕府から出された,(1)花園天皇から尊治親王(後醍醐天皇)への譲位,(2)在位年数を10年と定め,両統迭立を制度化する,(3)後二条天皇の皇子邦良親王を皇太子とし,次の皇太子を後伏見上皇の皇子量仁親王とする,の3点を内容とする妥協案も,第3点について両統の一致を見ず,結局両統迭立の問答は決着がつかぬまま,ともかくも幕府案の第1点をいれて翌年花園天皇は譲位し,後醍醐天皇が立った。践祚3年後に親政を実現した後醍醐天皇は,記録所を設置して諸事の決裁にあたるとともに,持明院統との間で折半されていた室町院領の獲得を図るなど(幕府の反対で失敗),積極的な政治活動を行い,やがて幕府との間に軋轢(あつれき)を生ずるに至った。24年(正中1)の倒幕計画は事前に洩れて失敗したが(正中の変),26年(嘉暦1)に皇太子邦良親王が死去し,幕府の介入によって持明院統の量仁親王が皇太子になると,これを不満とした後醍醐天皇はいよいよ倒幕の決意を固めた。大覚寺統の後醍醐天皇が幕府との対立を深めていったのに対して,持明院統はしだいに幕府に接近し,元弘の乱で後醍醐天皇が捕らえられると量仁親王が幕府に擁立されて皇位についた(光厳天皇)。
その後,後醍醐天皇の復帰,建武新政府の成立によって光厳天皇は退位したが,やがて足利尊氏と後醍醐天皇との間が決裂して建武政府が分解し,尊氏が光厳上皇を奉じて後醍醐天皇を追い,光厳上皇の弟光明天皇を皇位につけた。ここに至って持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の対立は決定的となり,両統の対立は南北両朝の抗争へと形をかえ,約半世紀にわたって内乱が続いた。92年(元中9・明徳3)の南北両朝の合一に際しては再び両統迭立とすることが条件とされたが,実際にはこの条件は守られず,持明院統のみが皇位を継承した。
執筆者:新田 英治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鎌倉時代後半、後深草(ごふかくさ)天皇系(持明院(じみょういん)統)と亀山(かめやま)天皇系(大覚寺(だいかくじ)統)の両統から交互に皇位につくとされた皇位継承の原則。後嵯峨(ごさが)法皇の死(1272)後、法皇の2子後深草上皇と亀山天皇との間に、いずれの系統が皇位を継承するかについての対立が生じ、これに皇室領荘園(しょうえん)をめぐる対立も加わって天皇家は二つに分裂した。承久(じょうきゅう)の乱(1221)以降皇位継承問題に干渉し、大きな発言力をもっていた鎌倉幕府は、両統の勢力の均衡を重視し、亀山天皇の皇子世仁(よひと)親王が践祚(せんそ)(後宇多(ごうだ)天皇)した際、執権北条時宗(ときむね)の斡旋(あっせん)で持明院統の煕仁(ひろひと)親王(伏見(ふしみ)天皇)を皇太子と定めたが、これが両統迭立の端緒となった。しかし、この原則は明確に規定されたものではなく、その後も皇位継承をめぐって対立が続いたうえ、室町院領などの皇室領荘園をめぐる争いなどから、両統の対立はしだいに深まっていった。大覚寺統の後二条(ごにじょう)天皇の死(1308)後、持明院統の後伏見(ごふしみ)上皇の弟富仁(とみひと)親王が践祚(花園(はなぞの)天皇)し、後二条天皇の弟尊治(たかはる)親王(後醍醐(ごだいご)天皇)が皇太子となったが、このとき、持明院統の皇位は後伏見系に、大覚寺統の皇位は後二条系にそれぞれ将来は伝えられるべきことが定められ、そのため持明院統が後伏見系と花園系に、大覚寺統が後二条系と後醍醐系にそれぞれ再分裂する可能性が生じた。こうした事態を憂慮するとともに両統の抗争に巻き込まれることを嫌った幕府は、1317年(文保1)に使者を上京させて両統の協議による皇位継承ルールの画定を促した(文保(ぶんぽう)の和談)。しかし協議は難航し、幕府から提出された10年交代の両統迭立を軸とする妥協案も、細部について合意をみず、明確な決着がつかぬままに翌年花園天皇は幕府の意を受けて尊治親王に譲位した。後醍醐天皇は3年後に親政を実現し、積極的な政治行動を展開して、やがて幕府との間に軋轢(あつれき)を生じた。一方この間に持明院統はしだいに幕府に接近していった。元弘(げんこう)の変(1331)で後醍醐天皇が捕らえられると、後伏見天皇の皇子量仁(ときひと)親王が六波羅探題(ろくはらたんだい)に擁立されて践祚(光厳(こうごん)天皇)し、光厳天皇は建武(けんむ)新政政府の成立によって退位したが、やがて足利尊氏(あしかがたかうじ)の離反で建武政府が倒壊すると、持明院統は足利氏に擁立され(北朝)、大覚寺統(南朝)と完全に対立するに至り、両統の対立は南北両朝の対立に移行した。1392年(明徳3・元中9)の両朝合一に際しては、ふたたび両統迭立とすることが条件とされたが、実際にはこの条件は守られず、持明院統のみが皇位を継承した。
[新田英治]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
鎌倉後期,皇位・所領をめぐって対立した二つの皇統,後深草天皇系の持明院統と,亀山天皇系の大覚寺統との間で,交替で天皇を出すこととした原則。後嵯峨上皇が後継者を指名することなく没した後,決定をゆだねられた幕府は,上皇の中宮大宮院の証言によって亀山天皇の親政とし,天皇が皇子世仁(よひと)親王(後宇多天皇)に譲位した際には,北条時宗の斡旋によって後深草皇子熙仁(ひろひと)(伏見天皇)を皇太子とした。これ以降,持明院統の後伏見,大覚寺統の後二条,持明院統の花園が交替で皇位につき,皇室領荘園も持明院統が長講堂領を,大覚寺統が八条院領を継承して室町院領は両統に折半された。1317年(文保元)文保の和談によって両統迭立を守ることが求められ,大覚寺統の後醍醐が皇位についた。この時点では,さらに持明院統が後伏見系と花園系,大覚寺統が後二条系と後醍醐系に分裂。26年(嘉暦元)持明院統の量仁(かずひと)が皇太子になったことは,後醍醐天皇の倒幕運動の動機の一つとなった。南北朝内乱ののち,92年(明徳3・元中9)の両朝合一によって再び両統迭立の原則によることとなったが,実際は持明院統のみが皇位を継承した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…このうち後深草上皇の子伏見上皇が持明院(現在の京都市上京区安楽小路町にあった)を居所としたことからこの皇統を持明院統とよび,これに対して亀山天皇系が大覚寺統とよばれている。皇位継承については鎌倉幕府の斡旋で両統交互に皇位につく両統迭立が原則とされたが,長講堂領などの皇室領荘園をめぐって両統の対立はしだいに深まっていった。文保の和談(1317)以降は,大覚寺統の後醍醐天皇の強烈な個性に対して持明院統は政争の表面に立つことが比較的少なく,武家政権に利用される形となって,北条氏に擁立された光厳天皇から足利氏に擁立された北朝へとその系譜はつながっていく。…
…後深草天皇の系統を持明院統とよぶのに対し,亀山天皇の皇子後宇多上皇が嵯峨の大覚寺を再興して〈大覚寺殿〉と称したことから,この皇統を大覚寺統とよぶ。後嵯峨法皇の死(1272)後生じた皇位継承をめぐる争いに加え,皇室領荘園の領有をめぐる抗争から天皇家は二つに分裂し,鎌倉幕府の斡旋で両統から交互に皇位につく,いわゆる両統迭立を原則として,鎌倉時代後半を通じ両統の勢力均衡が保たれつつ対立がつづいた。文保の和談以降,大覚寺統の後醍醐天皇は天皇親政を積極的に推進してしだいに幕府と対立し,幕府倒壊後,建武中興政府を開いたが,やがて離反した足利尊氏のために京都を追われ,尊氏に擁立された北朝(持明院統)に対抗して,大和の吉野に拠って南朝をたてた。…
…幕府は,皇位をめぐる両統の抗争にまきこまれるのを回避するため,1317年(文保1)使者を上京させて,皇位継承のルールを両統の協議によって定めることを促した。しかし,両統による協議が難航したため,幕府は,(1)持明院統の花園天皇から大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)への譲位,(2)在位年数を10年とした両統迭立,(3)皇太子を大覚寺統の邦良親王とし,その次を持明院統の量仁親王とする,の3点を提案したが,第3点が大覚寺統が2代つづく点で第2点の両統迭立の原則に背くことから持明院統側が難色を示し,結局,皇位継承に関する明確なルールは画定されないままに終わった。この結果,幕府はひきつづき皇位継承問題に介入せざるをえないこととなり,花園天皇は翌年幕府の奏請に従って尊治親王に譲位した。…
※「両統迭立」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加