南北朝の内乱(読み)なんぼくちょうのないらん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「南北朝の内乱」の意味・わかりやすい解説

南北朝の内乱
なんぼくちょうのないらん

1330年代から、ほぼ60年間にわたって日本列島の各地で展開した内乱。南北両朝の擁立を名目に武士・貴族らが広範な民衆を巻き込んで、対立・抗争を繰り返した。この過程で、荘園制的支配体制が崩壊し、天皇をはじめ古い支配の権威失墜、地域的支配体制(守護―国人(こくじん)体制)が形成された。

[佐藤和彦]

内乱の前史

13世紀の後半から各地で蠢動(しゅんどう)し始めた諸国悪党は、1320年代には鎌倉幕府を震撼(しんかん)させる勢力へと発展した。彼らの蜂起蝦夷(えみし)の反乱などによって鎌倉幕府の支配体制が麻痺(まひ)すると、その間隙をぬって後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を中心とする討幕運動が開始される。悪党は、50騎、100騎と連なって荘園へ討ち入り、刈田・刈畠などを行い、年貢米を奪取し、幕府派遣の追討使と対等にわたりあうほどになった。悪党集団は、分業・流通・婚姻などによって結束を固めた。河内(かわち)の悪党楠木正成(くすのきまさしげ)、播磨(はりま)の悪党赤松則村(のりむら)(円心)、伯耆(ほうき)の海賊名和長年(なわながとし)、伊賀の黒田悪党らは後醍醐天皇の下に結集し、反幕府運動を展開した。天皇は2度にわたる討幕計画に失敗したものの、1333年(正慶2・元弘3)5月、北条氏の専制政治に批判的な足利氏・新田(にった)氏などの有力御家人の援助を受けて、六波羅探題を、ついで鎌倉幕府を崩壊させた。

[佐藤和彦]

内乱の展開

鎌倉幕府を倒し、建武(けんむ)政権を樹立した後醍醐天皇は「朕(ちん)の新儀は未来の先例なり」と主張し、綸旨(りんじ)万能をふりかざした専制政治を強行した(建武新政)。しかし、現実無視の諸政策は、政権内部にさまざまな矛盾を発生させ、1334年(建武元)には、都市や農村においても、政権への諸批判がみられるようになった。翌年6月の天皇暗殺計画、7月の北条時行(ときゆき)の反乱(中先代(なかせんだい)の乱)、年末から1336年(建武3・延元元)にかけての建武の乱の結果、足利尊氏(あしかがたかうじ)は天皇方を完全に圧倒した。同年11月には『建武式目(けんむしきもく)』を制定して室町幕府を創設し、光明天皇を擁立する。それに対して後醍醐天皇は12月に京都を脱出して吉野に逃れ南朝を樹立した。1339年(暦応2・延元4)8月の天皇の死去は大きな痛手ではあったが、南朝勢力はなお健在で、悪党・野伏・山伏などを使者として全国各地に派遣して情報を収集し、各地の南朝方勢力へ指令を発信した。この間にも、室町幕府勢力(北軍)と吉野勢力(南軍)とが激戦を続けたが、1343年(康永2・興国4)には、南軍の東国地方の拠点である関(せき)・大宝(たいほう)城が陥落した(関・大宝城の戦)。1348年(貞和4・正平3)四条畷(しじょうなわて)において、楠木正行(くすのきまさつら)軍と高師直(こうのもろなお)軍とが激突したが、衆寡敵せず正行は自刃して果てた(四条畷の戦)。師直はこの機を逃さず吉野へ侵攻、行宮(あんぐう)・蔵王堂などを焼き尽し、後村上天皇を賀名生(あのう)へとおった。

[佐藤和彦]

内乱の深化と終焉

足利尊氏の執事高師直と足利直義(ただよし)との幕政運営をめぐる主導権争いは、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)といわれる権力闘争へと発展したが、1352年(文和元・正平7)尊氏は直義を鎌倉へと追いこめ、ついに毒殺するに及んだ。この間隙をぬって、楠木正儀(まさのり)らの南軍が京都を占拠し、関東でも、宗良(むねよし)親王を奉じて新田義興(よしおき)らが鎌倉を攻撃したが失敗に終わった。これが南軍による最後の大規模な作戦であった。九州地方では懐良(かねよし)親王の勢力が活躍を続けていたものの、1363年(貞治2・正平18)に、南軍の大内弘世(ひろよ)と、旧直義派の山名時氏(やまなときうじ)が幕府に帰順し、室町幕府の支配体制は安定化の方向へと向かった。1367年細川頼之(よりゆき)が管領職(かんれいしき)に就任し、足利義満(よしみつ)を補佐して政権の基礎を固めた。義満は奉公衆と呼ばれる将軍直轄軍を充実させ、北朝の保持していた京都市政権を簒奪(さんだつ)した。東国においては鎌倉公方(くぼう)足利氏満(うじみつ)が、九州においては今川貞世(さだよ)(了俊(りょうしゅん))が幕府の支配体制を強化拡充した。義満は1388年(嘉慶2・元中5)以降諸国遊覧(将軍権威を誇示する大軍事デモンストレーション)を行い、1391年(明徳2・元中8)六分一衆といわれた大守護山名氏を挑発、蜂起させてこれを討ち、勢力を一挙に弱めさせた。翌年、大内義弘(よしひろ)を使者として南北合体の儀式を執り行い内乱を終息させた。

[佐藤和彦]

内乱の意義

60年にわたる内乱は下剋上(げこくじょう)の社会、自由狼藉(ろうぜき)の世界を生み、この過程において、貴族社会の経済基盤であった荘園制が崩壊し、天皇の政治的権威は失墜して、室町幕府―守護体制が支配権力として屹立するに至った。都市や市場・港湾では分業流通の発展を背景に商工業者が活躍し、惣村(そうそん)を基盤とする荘家の一揆の展開がみられるようになった。

[佐藤和彦]

『松本新八郎著『中世社会の研究』(1956・東京大学出版会)』『田中義成著『南北朝時代史』(1979・講談社学術文庫)』『佐藤和彦著『南北朝内乱史論』(1979・東京大学出版会)』『網野善彦著『日本中世の非農業民と天皇』(1984・岩波書店)』『佐藤進一著『日本中世史論集』(1990・岩波書店)』『伊藤喜良著『日本中世の王権と権威』(1993・思文閣出版)』『佐藤進一著『改版 南北朝の動乱』(2005・中央公論新社)』『森茂暁著『増補改訂 南北朝期公武関係史の研究』(2008・思文閣出版)』

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