藤原不比等(読み)フジワラノフヒト

デジタル大辞泉 「藤原不比等」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ふひと〔ふぢはら‐〕【藤原不比等】

[659~720]奈良初期の公卿鎌足かまたりの二男。諡号しごう、文忠公・淡海公右大臣大宝律令養老律令編纂へんさん参加。娘の宮子文武天皇夫人、光明子聖武天皇皇后となり、臣下の立后の例をひらき、藤原氏繁栄の基礎をつくった。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原不比等」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ふひと【藤原不比等】

  1. 奈良初期の公卿。右大臣。父は鎌足。母は車持国子の娘。大宝律令撰修に参画、養老律令を完成。平城京遷都を主唱し、氏寺山階寺を奈良に移して興福寺と改めた。後室橘三千代の力で皇室との関係を深め、娘宮子を文武天皇夫人、光明子を聖武天皇皇后となして人臣皇后の初例を開き、藤原氏繁栄の基礎をつくった。死後、太政大臣正一位を贈られ、文忠公の諡号を賜わる。淡海公。斉明五~養老四年(六五九‐七二〇

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原不比等」の意味・わかりやすい解説

藤原不比等 (ふじわらのふひと)
生没年:659-720(斉明5-養老4)

奈良時代初期の重臣。史(ふひと)とも表記。鎌足の次男で,母は車持君国子(くるまもちのきみくにこ)の娘の与志古(よしこ)。幼時は山科(京都市山科区)の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家で育ったので,史と名づけられたという。父の死後3年目に起こった壬申の乱では,田辺一族から近江方の将軍となった者も出たが,不比等自身はまだ少年であったし,乱後の天武朝には,姉妹の氷上(ひかみ)や五百重(いおえ)が天武夫人(ぶにん)としてそれぞれ但馬(たじま)皇女や新田部皇子を生んだためもあって,順調に官途を歩みだしたらしく,持統朝で判事(はんじ)に任命されたときには,数え年31歳で直広肆(じきこうし)(従五位下相当)に昇っていた。判事任命は,父と同じように法律にも関心のあったことを思わせるが,文武朝での大宝律令制定のさいには刑部(おさかべ)親王を補佐し,施行と同時に正三位大納言に昇った。時に42歳。この間,娘の宮子(みやこ)を文武夫人とし,父に賜った藤原という氏を自分の子孫に限定するために,698年(文武2),他の藤原一族はすべて元の中臣という氏に戻らせることに成功し,また文武没後の713年(和銅6)のことであるが,文武天皇の他の配偶者からは嬪(ひん)/(みめ)という称号を剝奪して配偶者を宮子に限定し,その翌年には文武と宮子との間に生まれた首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を立太子させ,さらに自分と後妻県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)との間に生まれた光明子を716年(霊亀2)には皇太子夫人とするなど,他氏を排除しながら自分の一家と皇室との結びつきを深めていった。

 朝廷では先輩である左大臣正二位石上麻呂(いそのかみのまろ)が717年(養老1)に没すると右大臣正二位のまま首班となり,数人の下僚とともに養老律令の制定に着手したが,完成しないうちに720年8月に病没,10月に太政大臣正一位を贈られ,760年(天平宝字4)8月には淡海公(たんかいこう)の称号が贈られた。女子には宮子,光明子のほかに長屋王(ながやおう),橘諸兄(たちばなのもろえ),大伴古慈斐(おおとものこしび)にそれぞれ嫁した3人が知られ,男子では武智麻呂(むちまろ),房前(ふささき),宇合(うまかい),麻呂(まろ)の4人が不比等没後の政界でそろって活躍した。なお《懐風藻》には不比等の五言詩5首が収められている。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原不比等」の解説

藤原不比等

没年:養老4.8.3(720.9.9)
生年:斉明5(659)
律令国家成立期の政治家。内大臣中臣(藤原)鎌足の第2子。史とも書く。長兄は入唐学問僧定恵(貞慧・貞恵とも)。母は車持国子の娘与志古娘。天智皇胤説は後世の付会。天智8(669)年11歳で父と死別,山科の田辺史大隅らの家に養われ,史の名はそれによるという。天武9(680)年蘇我臣連子の娘娼子との間に武智麻呂が誕生,次いで房前,宇合が生まれ,また異母妹五百重娘との間に4男麻呂をもうけた。この4子はのち南家,北家,式家,京家を興す。女子では賀茂小黒麻呂の娘賀茂比売との間に宮子,また後妻県犬養三千代との間に安宿媛(光明子)と多比能が生まれた。 持統3(689)年直広肆(従五位下)判事(裁判官)となる(正史上の初見)。この年草壁皇太子は死に臨んで佩刀「黒作懸佩刀」を与え,軽皇子(のちの文武天皇)の将来を託したという(「東大寺献物帳」)。持統11(697)年文武即位に当たり黒作懸佩刀を献呈,また宮子入内,文武妃となる。翌2年詔により藤原朝臣の姓は不比等の継承するところとし,意美麻呂(鎌足の猶子という)らは神事にかかわるため中臣の旧姓に復す。これにより藤原氏は神事から離脱,政治貴族の道を進む。同4年大宝律令の編纂に加わる。直広壱(正四位下)。大宝1(701)年大納言正三位となり公卿に列す。この年宮子に外孫首皇子(のちの聖武天皇)が誕生,また同年に生まれた娘・安宿媛はのち首皇太子妃となる(716)。慶雲1(704)年大納言従二位(廟堂第3座)。同4年文武は死に臨んで黒作懸佩刀を再び与える。和銅1(708)年3月右大臣正二位となる。同3年平城遷都が実現すると,氏寺(興福寺)を平城に移す。霊亀1(715)年,知太政官事穂積親王没し,廟堂第2座となる。養老1(717)年,石上麻呂没し,廟堂首座となる。同2年養老律令の編纂を開始。太政大臣に任じられるが,固辞。同4年,死に先だち黒作懸佩刀を首皇太子に献ずる。8月3日死去。10月太政大臣正一位を追贈,諡を文忠公という。律令天皇制国家の演出者であり,冷徹で現実的な官僚政治家の風貌を想わしめるが,それを直接語る史料は極めて少ない。『懐風藻』に漢詩5首を載す。天平宝字4(760)年斉の太公の故事により追封されて淡海公と称される。<参考文献>上田正昭『藤原不比等』

(原秀三郎)

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百科事典マイペディア 「藤原不比等」の意味・わかりやすい解説

藤原不比等【ふじわらのふひと】

奈良前期の高官。鎌足(かまたり)の子。父の死後家を継ぎ,正二位右大臣に至る。律令制度の確立に努め,大宝律令(たいほうりつりょう)制定に加わり平城京遷都を推進した。娘の宮子(みやこ)が文武(もんむ)天皇の夫人となり,後妻の橘三千代の活躍もあって皇室との関係を深め,娘の光明子(こうみょうし)は聖武天皇の皇后となった。武智麻呂(むちまろ),房前(ふささき),宇合(うまかい),麻呂の4子はそれぞれ藤原四家の祖となった。
→関連項目外戚光明皇后橘三千代文武天皇養老律令

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原不比等」の意味・わかりやすい解説

藤原不比等
ふじわらのふひと
(658/659―720)

飛鳥(あすか)・奈良時代の政治家。藤原鎌足(かまたり)の第2子。武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)、宮子(みやこ)(文武(もんむ)天皇夫人)、安宿媛(あすかひめ)(光明(こうみょう)皇后)の父。名を史とも書く。理由あって山科田辺史大隅(やましなのたなべのふひとおおすみ)の家に養われたからとも伝える。689年(持統天皇3)判事とあるのが初見。大宝律令(たいほうりつりょう)の撰定(せんてい)に参加。そのころ、すでに美努(みの)王に嫁して葛城(かつらぎ)王(後の橘諸兄(たちばなのもろえ))ら三児を産んでいた県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)と結婚。その宮廷における隠然たる勢力にも助けられて、しだいに政界に進出、中納言(ちゅうなごん)から大納言、ついで補佐の功により食封(じきふ)5000戸を賜ったが、辞退して2000戸にとどまる。708年(和銅1)には右大臣に進み、また女(むすめ)の安宿媛を皇太子首(おびと)皇子(後の聖武(しょうむ)天皇)の妃に納(い)れ、専権的傾向を強くする。718年(養老2)自ら中心となって養老(ようろう)律令の編纂(へんさん)に着手したが、完成を待たずに720年に没した。太政(だいじょう)大臣・正(しょう)一位を贈られ、佐保(さほ)山に火葬したともいう。またのち760年(天平宝字4)にはその功および皇家の外威(がいせき)を理由に、斉太公の故事に倣い、近江(おうみ)12郡に封じて淡海(たんかい)公と称された。なお生前には山階(やましな)寺の維摩会(ゆいまえ)を復興した。

[岸 俊男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原不比等」の意味・わかりやすい解説

藤原不比等
ふじわらのふひと

[生]斉明4(658)/斉明5(659)
[没]養老4(720).8.3.
奈良時代初期の廷臣。鎌足の次男。母は車持国子の娘与志古娘。光明皇后の父。文武4 (700) 年勅を受けて刑部親王らと『大宝律』 (6巻) ,『大宝令』 (11巻) の編纂に着手,大宝1 (701) 年に完成,同年正三位,大納言,和銅1 (708) 年正二位,右大臣。養老2 (718) 年律令の修正を行い『養老律』 (10巻) ,『養老令』 (10巻) の編纂に尽力。同7年太政大臣を固辞。没後太政大臣,正一位を贈られ文忠公と諡 (おくりな) され,天平宝字4 (760) 年淡海公と称された。その男子4人は藤原4家の祖となり,女子宮子は文武天皇夫人,光明子は聖武天皇皇后となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原不比等」の解説

藤原不比等
ふじわらのふひと

659~720.8.3

奈良初期の公卿。鎌足(かまたり)の次男。母は車持国子(くるまもちのくにこ)の女与志古娘。本来名は史と記し,養育された田辺史大隅の史姓に由来。689年(持統3)判事に任じられる。698年(文武2)藤原姓の独占的使用を認められ,鎌足の政治的遺産を継承。701年(大宝元)正三位に叙され,大納言に昇る。708年(和銅元)右大臣に至り,左大臣石上(いそのかみ)麻呂の没後は太政官の首班となる。大宝律令制定を主導し,養老律令撰定も主宰。元明天皇即位,平城遷都の主唱者と目される。没後に太政大臣正一位を贈られ,淡海公と称せられた。東大寺献物帳に記す黒作懸大刀の由緒は,不比等と皇室草壁直系の密接な関係を示す。4男子は中央政府で活躍し,女には文武天皇の夫人宮子,聖武天皇皇后の安宿媛(あすかべひめ)(光明子),長屋王の妾などがいる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原不比等」の解説

藤原不比等 ふじわらの-ふひと

659-720 飛鳥-奈良時代の公卿(くぎょう)。
斉明天皇5年生まれ。藤原鎌足(かまたり)の次男。母は車持与志古娘(くるまもちの-よしこのいらつめ)。藤原四家の祖。「大宝律令」撰定の功で大納言となり,和銅元年(708)正二位,右大臣。律令体制を確立し,平城遷都,「養老律令」編修をすすめた。娘宮子,光明子を文武・聖武(しょうむ)天皇の後宮にいれ,皇権とむすぶ藤原氏の特権的地位をきずいた。「懐風藻」に詩5首がのこる。養老4年8月3日死去。62歳。贈正一位太政大臣。名は史ともかく。諡(おくりな)は淡海公。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原不比等」の解説

藤原不比等
ふじわらのふひと

659〜720
奈良時代の公卿
鎌足の2男。父のあとをうけ藤原氏の地位を安定させた。大宝律令撰修に参画し,養老律令編修の中心ともなった。大納言・右大臣を歴任し,律令政治の実施に尽力した。710年平城京遷都に際し,氏寺山階寺を新都に移し興福寺と改称。娘宮子を文武天皇の夫人とし(その間に生まれたのが聖武天皇),のち妻橘三千代との間に生まれた光明子が729年聖武天皇の皇后となった。また,武智麻呂 (むちまろ) ・房前 (ふささき) ・宇合 (うまかい) ・麻呂の4子が藤原四家を分立した。死後淡海公の称を贈られた。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原不比等の言及

【橘三千代】より

…天武朝に出仕するのと前後して美努(みの)王と結婚し,684年(天武13)葛城(かつらぎ)王(橘諸兄)を生み,前年誕生した軽(かる)皇子(文武天皇)の乳母となり,次いで佐為(さい)王(橘佐為),牟漏(むろ)女王(藤原房前(ふささき)室)を生んだ。後に藤原不比等(ふひと)に接近し,彼の長女宮子を文武天皇夫人とすることに成功して急速に親密となり,ついに美努王のもとを去り不比等と再婚した。701年(大宝1)宮子が首(おびと)皇子(聖武天皇)を生むと,三千代もまた不比等の第3女安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后)を生み,再び乳母となって首皇子を養育した。…

【中臣氏】より

…日本古代の豪族。大和朝廷では祭祀を担当し姓(かばね)は連(むらじ)。大化改新後に藤原氏を分出,八色(やくさ)の姓の制度で朝臣を賜姓。奈良後期から嫡流は大中臣(おおなかとみ)氏。中世以後は岩出(いわで),藤波(ふじなみ)などと称する。中臣とは,《中臣氏系図》の〈延喜本系〉に奈良後期の本系帳を引用し〈高天原に初めて,皇神(すめかみ)の御中(みなか),皇御孫(すめみま)の御中執り持ちて,いかし桙(ほこ)傾けず,本末(もとすえ)なからふる人,これを中臣と称へり〉とか,《台記別記》の〈中臣寿詞(なかとみのよごと)〉に〈本末傾けず茂槍(いかしほこ)の中執り持ちて仕へ奉る中臣〉とか,《大織冠伝》に〈世々天地の祭を掌り,人神の間を相和す。…

【奈良時代】より

…奈良時代を前後の2時期に分ける場合は,この聖武退位,孝謙即位の時点をもって前後に区分するのが適当であろう。
[政治過程]
 藤原不比等はその娘宮子を文武天皇の夫人とし,また宮廷に隠然たる勢力をもっていた県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)を妻に迎え,さらに大宝律令の撰定にも参加するなど,しだいに政界に地歩を固めてきたが,元明天皇の即位とともに右大臣に栄進し,三千代は橘宿禰(たちばなのすくね)の氏姓を賜った。時に知太政官事(ちだいじようかんじ)に穂積親王,左大臣に石上麻呂,大納言に大伴安麻呂がおり,ともに議政官として国政を担当したが,この3人は間もなく相次いで死去した。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

【養老律令】より

…しかし律は,一部が残されているにすぎない。701年(大宝1)制定・施行の大宝律令についで編纂されたもので,藤原不比等(ふひと)が主導し,矢集蟲麻呂(やずめのむしまろ),陽胡真身(やこのまみ),大倭小東人(やまとのこあずまひと),塩屋古麻呂(しおやのこまろ)(吉麻呂とも),百済人成(くだらのひとなり)が編纂に従事した。この編纂については,今日,(1)不比等の私的事業として行われたとする学説と,(2)律令の編纂・公布には,新しい国家体制を創造するという目的主義的な場合と,その制定・公布権を自己の皇統に伝えるという個人的な目的による場合とがあり,養老律令は後者の立場から,元明太上天皇と不比等が,文武天皇の皇子であり不比等の孫でもある首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)のもとで新律令を公布させるために編纂されたとする学説の,二つの見方がある。…

※「藤原不比等」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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