奈良時代初期の重臣。史(ふひと)とも表記。鎌足の次男で,母は車持君国子(くるまもちのきみくにこ)の娘の与志古(よしこ)。幼時は山科(京都市山科区)の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家で育ったので,史と名づけられたという。父の死後3年目に起こった壬申の乱では,田辺一族から近江方の将軍となった者も出たが,不比等自身はまだ少年であったし,乱後の天武朝には,姉妹の氷上(ひかみ)や五百重(いおえ)が天武夫人(ぶにん)としてそれぞれ但馬(たじま)皇女や新田部皇子を生んだためもあって,順調に官途を歩みだしたらしく,持統朝で判事(はんじ)に任命されたときには,数え年31歳で直広肆(じきこうし)(従五位下相当)に昇っていた。判事任命は,父と同じように法律にも関心のあったことを思わせるが,文武朝での大宝律令制定のさいには刑部(おさかべ)親王を補佐し,施行と同時に正三位大納言に昇った。時に42歳。この間,娘の宮子(みやこ)を文武夫人とし,父に賜った藤原という氏を自分の子孫に限定するために,698年(文武2),他の藤原一族はすべて元の中臣という氏に戻らせることに成功し,また文武没後の713年(和銅6)のことであるが,文武天皇の他の配偶者からは嬪(ひん)/(みめ)という称号を剝奪して配偶者を宮子に限定し,その翌年には文武と宮子との間に生まれた首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を立太子させ,さらに自分と後妻の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)との間に生まれた光明子を716年(霊亀2)には皇太子夫人とするなど,他氏を排除しながら自分の一家と皇室との結びつきを深めていった。
朝廷では先輩である左大臣正二位石上麻呂(いそのかみのまろ)が717年(養老1)に没すると右大臣正二位のまま首班となり,数人の下僚とともに養老律令の制定に着手したが,完成しないうちに720年8月に病没,10月に太政大臣正一位を贈られ,760年(天平宝字4)8月には淡海公(たんかいこう)の称号が贈られた。女子には宮子,光明子のほかに長屋王(ながやおう),橘諸兄(たちばなのもろえ),大伴古慈斐(おおとものこしび)にそれぞれ嫁した3人が知られ,男子では武智麻呂(むちまろ),房前(ふささき),宇合(うまかい),麻呂(まろ)の4人が不比等没後の政界でそろって活躍した。なお《懐風藻》には不比等の五言詩5首が収められている。
執筆者:青木 和夫
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(原秀三郎)
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飛鳥(あすか)・奈良時代の政治家。藤原鎌足(かまたり)の第2子。武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)、宮子(みやこ)(文武(もんむ)天皇夫人)、安宿媛(あすかひめ)(光明(こうみょう)皇后)の父。名を史とも書く。理由あって山科田辺史大隅(やましなのたなべのふひとおおすみ)の家に養われたからとも伝える。689年(持統天皇3)判事とあるのが初見。大宝律令(たいほうりつりょう)の撰定(せんてい)に参加。そのころ、すでに美努(みの)王に嫁して葛城(かつらぎ)王(後の橘諸兄(たちばなのもろえ))ら三児を産んでいた県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)と結婚。その宮廷における隠然たる勢力にも助けられて、しだいに政界に進出、中納言(ちゅうなごん)から大納言、ついで補佐の功により食封(じきふ)5000戸を賜ったが、辞退して2000戸にとどまる。708年(和銅1)には右大臣に進み、また女(むすめ)の安宿媛を皇太子首(おびと)皇子(後の聖武(しょうむ)天皇)の妃に納(い)れ、専権的傾向を強くする。718年(養老2)自ら中心となって養老(ようろう)律令の編纂(へんさん)に着手したが、完成を待たずに720年に没した。太政(だいじょう)大臣・正(しょう)一位を贈られ、佐保(さほ)山に火葬したともいう。またのち760年(天平宝字4)にはその功および皇家の外威(がいせき)を理由に、斉太公の故事に倣い、近江(おうみ)12郡に封じて淡海(たんかい)公と称された。なお生前には山階(やましな)寺の維摩会(ゆいまえ)を復興した。
[岸 俊男]
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659~720.8.3
奈良初期の公卿。鎌足(かまたり)の次男。母は車持国子(くるまもちのくにこ)の女与志古娘。本来名は史と記し,養育された田辺史大隅の史姓に由来。689年(持統3)判事に任じられる。698年(文武2)藤原姓の独占的使用を認められ,鎌足の政治的遺産を継承。701年(大宝元)正三位に叙され,大納言に昇る。708年(和銅元)右大臣に至り,左大臣石上(いそのかみ)麻呂の没後は太政官の首班となる。大宝律令制定を主導し,養老律令撰定も主宰。元明天皇即位,平城遷都の主唱者と目される。没後に太政大臣正一位を贈られ,淡海公と称せられた。東大寺献物帳に記す黒作懸大刀の由緒は,不比等と皇室草壁直系の密接な関係を示す。4男子は中央政府で活躍し,女には文武天皇の夫人宮子,聖武天皇皇后の安宿媛(あすかべひめ)(光明子),長屋王の妾などがいる。
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…天武朝に出仕するのと前後して美努(みの)王と結婚し,684年(天武13)葛城(かつらぎ)王(橘諸兄)を生み,前年誕生した軽(かる)皇子(文武天皇)の乳母となり,次いで佐為(さい)王(橘佐為),牟漏(むろ)女王(藤原房前(ふささき)室)を生んだ。後に藤原不比等(ふひと)に接近し,彼の長女宮子を文武天皇夫人とすることに成功して急速に親密となり,ついに美努王のもとを去り不比等と再婚した。701年(大宝1)宮子が首(おびと)皇子(聖武天皇)を生むと,三千代もまた不比等の第3女安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后)を生み,再び乳母となって首皇子を養育した。…
…日本古代の豪族。大和朝廷では祭祀を担当し姓(かばね)は連(むらじ)。大化改新後に藤原氏を分出,八色(やくさ)の姓の制度で朝臣を賜姓。奈良後期から嫡流は大中臣(おおなかとみ)氏。中世以後は岩出(いわで),藤波(ふじなみ)などと称する。中臣とは,《中臣氏系図》の〈延喜本系〉に奈良後期の本系帳を引用し〈高天原に初めて,皇神(すめかみ)の御中(みなか),皇御孫(すめみま)の御中執り持ちて,いかし桙(ほこ)傾けず,本末(もとすえ)なからふる人,これを中臣と称へり〉とか,《台記別記》の〈中臣寿詞(なかとみのよごと)〉に〈本末傾けず茂槍(いかしほこ)の中執り持ちて仕へ奉る中臣〉とか,《大織冠伝》に〈世々天地の祭を掌り,人神の間を相和す。…
…奈良時代を前後の2時期に分ける場合は,この聖武退位,孝謙即位の時点をもって前後に区分するのが適当であろう。
[政治過程]
藤原不比等はその娘宮子を文武天皇の夫人とし,また宮廷に隠然たる勢力をもっていた県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)を妻に迎え,さらに大宝律令の撰定にも参加するなど,しだいに政界に地歩を固めてきたが,元明天皇の即位とともに右大臣に栄進し,三千代は橘宿禰(たちばなのすくね)の氏姓を賜った。時に知太政官事(ちだいじようかんじ)に穂積親王,左大臣に石上麻呂,大納言に大伴安麻呂がおり,ともに議政官として国政を担当したが,この3人は間もなく相次いで死去した。…
…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家,二条家,一条家,九条家,鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…
…しかし律は,一部が残されているにすぎない。701年(大宝1)制定・施行の大宝律令についで編纂されたもので,藤原不比等(ふひと)が主導し,矢集蟲麻呂(やずめのむしまろ),陽胡真身(やこのまみ),大倭小東人(やまとのこあずまひと),塩屋古麻呂(しおやのこまろ)(吉麻呂とも),百済人成(くだらのひとなり)が編纂に従事した。この編纂については,今日,(1)不比等の私的事業として行われたとする学説と,(2)律令の編纂・公布には,新しい国家体制を創造するという目的主義的な場合と,その制定・公布権を自己の皇統に伝えるという個人的な目的による場合とがあり,養老律令は後者の立場から,元明太上天皇と不比等が,文武天皇の皇子であり不比等の孫でもある首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)のもとで新律令を公布させるために編纂されたとする学説の,二つの見方がある。…
※「藤原不比等」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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