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平城宮 ヘイジョウキュウ

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デジタル大辞泉の解説

へいじょう‐きゅう〔ヘイジヤウ‐〕【平城宮】

平城京の宮城(大内裏)。京の北部中央に位置し、東西約1.3キロ、南北約1キロで、東側に張り出し部がある。宮城内のほぼ中央に内裏、その南側に朝堂院があり、それらの周囲に諸官衙(かんが)が建ち並んでいた。平城宮跡は平成10年(1998)「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産文化遺産)に登録された。

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百科事典マイペディアの解説

平城宮【へいじょうきゅう】

平城京

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世界大百科事典 第2版の解説

へいじょうきゅう【平城宮】

現在の奈良市にあった古代の宮殿。710年(和銅3)から784年(延暦3)まで営まれ,途中8年ほど中絶し,恭仁(くに)京(京都府相楽郡)等に都が遷されたことがあるが,70年にわたって存続した。南北約1km,東西1.3kmの広さをもち,その中に天皇の御在所であり日常生活の居所であった内裏(だいり),公の儀式,政治の場である朝堂院(ちようどういん)があり,さらに百官と総称された官司の建物があった。したがって平城宮は天皇の居所であると同時に,当時の律令国家中央政府機構の所在地であった。

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大辞林 第三版の解説

へいじょうきゅう【平城宮】

平城京の中央北端に設けられた宮城(大内裏)。内裏・朝堂・八省以下の諸官衙からなる律令国家の中枢。宮域や殿舎の配置は九世紀以降不明確になっていたが、第二次大戦後の発掘調査で明らかになりつつある。大量に出土した木簡もつかんは、古代史研究に貴重な資料を提供している。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平城宮
へいじょうきゅう

710年(和銅3)から784年(延暦3)の首都平城京の中枢部分をいう。元明(げんめい)~桓武(かんむ)天皇の7代にわたる宮である。平城京の北端に位置し、一辺1キロメートルの正方形の東に張り出し部分があり、面積は合計124ヘクタールを占める。大正年間より遺跡保存がはかられ、現在国の特別史跡として、遺跡の調査と整備が続けられている。1998年(平成10)にはユネスコの世界文化遺産に登録された。
 宮の四周には高さ5メートルと推定される築地(ついじ)大垣がめぐり、大路に面して12の門が開く。正門にあたる朱雀(すざく)門は25メートル×10メートルの規模をもち、重層の門として現地に復原されている。
 天皇の住まいである内裏(だいり)は、宮の東北部に位置し、約180メートル四方の内郭に掘立柱(ほったてばしら)、桧皮葺(ひわだぶき)という伝統様式の建物が建ち並んでいた。内郭の南半にある正殿(後の紫宸殿(ししんでん))は桁行9間(27メートル)梁間5間(15メートル)の規模である。
 政務や儀式を行う朝堂院(ちょうどういん)は、最も重要な施設で、天皇が着座する大極殿(だいごくでん)と役人が着座する朝堂からなる。その遺跡は、朱雀門の北で宮の中央と、その東隣で内裏の南の2か所にある。大極殿は、天皇を象徴する大規模な建物で、奈良時代前期には中央に、後期には東に遷して建てられたと考えられる。その前期の大極殿が復原された。瓦葺(かわらぶき)の礎石(そせき)建物で、桁行9間(45メートル)梁間5間(15メートル)の規模である。
 内裏と朝堂院の周辺には、二官八省以下の官衙(かんが)(役所)が配置された。これまでの調査で、太政官、宮内省、式部省(しきぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、大膳職(だいぜんしき)、造酒司(ぞうしゅし)、馬寮(めりょう)などの各官衙が判明した。その位置関係をみると、平安宮のそれと類似し、何らかの原則があったことを窺わせる。
 他の宮にない東の張り出し部分は、東院(とういん)と称されるが、その南半は、天皇が出御して儀式や宴を行った場所と考えられる。東南隅には旧地形を生かした園池が発掘され、当時の庭園遺構として貴重である。[寺崎保広]
『田中琢著『古都発掘』(1996・岩波新書)』

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世界大百科事典内の平城宮の言及

【宮殿】より

…持統朝の藤原宮は方1kmの面積になり,そのうち大極殿,朝堂院および宮城十二門が大陸風の礎石・瓦葺建物で,他はすべて古墳時代以来の伝統的な掘立柱板葺あるいは檜皮(ひわだ)葺の建物であった。平城宮に移って一部東に皇太子の住居を足したため124haとなる。ここでも大極殿・朝堂院は礎石・瓦葺建物で,内裏やほとんどの役所は掘立柱建物であったことがわかっている。…

【大極殿】より

…しかし後の唐の長安城の太極殿では,東西両堂および前殿をともなっていない。 日本の古代の都城における大極殿は,中国の太極殿の系譜をひくと考えられ,藤原宮,平城宮,長岡宮,恭仁宮,平安宮,後期難波宮などで跡がみつかっている。いずれも前殿をもたず,藤原宮をのぞいては東西両堂ももたないので,唐の太極殿を継受した可能性が高い。…

【内裏】より

…このうち内裏の内側の築地には12の門がもうけられ,それぞれ近衛(このえ),兵衛(ひようえ)が守護することになっていた。 このような内裏は,古代のどの都城にもあったはずであるが,平城宮,藤原宮,難波宮,伝飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)などの発掘調査で,その存在が確認されている。このうち,最も詳しくわかっているのは平城宮の場合である。…

【奈良時代美術】より

…大和平野北端の理想的な地勢上に幹線道路の下ッ道を朱雀大路に利用し,南北5km,東西6kmに大路・小路を方眼に配し,南面には羅城を築き正面に羅城門を開いた。幅90mの朱雀大路の奥に方1kmを占めて平城宮が置かれ,天皇の住宮殿である内裏,儀式と公式行事の広場をもつ大極殿朝堂院,八省百官の官庁街があり,さらに東に突き出して苑池のある東院があった。宮城門や大極殿,朝堂院は大陸式に基壇をもち瓦葺きの建築であったが,内裏や官庁には掘立柱檜皮葺きが多かった。…

【南苑】より

平城宮に関連する施設。《続日本紀》での初見は727年(神亀4)で,以後同書に747年(天平19)までみえる。…

【藤原宮】より

…外濠と宮周辺の大路との間には幅30mを超す広大な空閑地(外周帯)をめぐらす。平城宮では大垣から宮周辺の大路までの壖地(ぜんち)の幅は10mほどだが,藤原宮では壖地,外濠,外周帯を合わせた幅は57mと実に5倍以上の広さである。しかし,この広大な空閑地の機能や性格はよくわかっていない。…

【木簡】より

…そのほか民政をはじめ漢代の生態の断面が浮彫にされ,漢代史研究に大きく寄与している。後述にあるように日本においては1961年に平城宮跡で木簡が出土し,以後各地でも発見され,日本古代史の新史料として注目を集め,郡評論争に終止符を打つなど重要な貢献をしている。中国,日本ともに考古学の発達により文献史料にのみ頼る研究は不十分になりつつあるが,木簡資料はその意味で最も重要である。…

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