江戸時代の千利休に関する茶道伝書。現代の茶道界で最も重要視される茶書であるが,その成立には種々の疑問がある。まず《南方録》とその発見者とされる立花実山(1656-1708)の記すところに従って,その成立過程を述べよう。堺の南宗寺の塔頭,集雲庵住持南坊宗啓(生没年不詳)は,わび茶の大成者千利休に近侍し,見聞する利休の言動や秘伝,茶会を克明に記録し,1巻まとまるごとに利休の検閲をうけて秘伝書6巻を書いた。各巻は〈覚書〉〈会〉〈棚〉〈書院〉〈台子(だいす)〉〈墨引〉で,最後の巻はあまりに秘伝が多いので墨を引いて捨てるように命じられたという。利休没後,書き残した秘伝,逸話を集めてさらに〈滅後〉を著し,南坊宗啓はどこともなく姿を消した。1686年(貞享3)黒田藩家老立花実山は京都から運ばれた利休秘伝書5巻を読み,さらに利休没後100年に当たる1690年(元禄3)に残りの〈墨引〉〈滅後〉の2巻を堺で発見し,合わせて7巻の写本を作り,全体の書名がなかったので《南方録》と命名した。しかし,こうした成立の伝承は別にして,各巻の内容を検討すると利休存世当時の史料とは思えない疑問が生じ,ことに利休茶会記を載せる〈会〉は《利休百会記》などの茶会記を材料として後世に編纂されたことが明らかで,編者は発見者を自称する立花実山以外に考えられない。利休百回忌を契機に盛りあがった利休回帰の思慕の念が,町人の遊芸化しつつあった元禄時代の茶の湯界を批判するために,利休と南坊宗啓に仮託した書物を成立せしめたのだろうと想像される。
その内容は,茶の湯を書院台子の真の茶と草の小座敷によるわび茶の2系列に分け,前者を基本としながら,理想の茶は後者の宗教的なわび茶にあると主張し,随所に利休をはじめ当時の茶人にかかわる興味深い逸話を引き,非常にすぐれた茶道論となっている。利休仮託の書といいながら,依るべき茶書を渉猟し,今日では失われたわび茶大成期の伝聞も多く書き留めていると思われ,聞くべき点も多い。しかしその反面,陰陽五行説に立つ複雑な道具配置の理論〈曲尺割(かねわり)〉を展開し,利休の茶にそぐわない点も感じられる。今日残されている写本はすべて立花実山の筆写本を原本としており,実山自筆本が博多円覚寺に蔵され,その弟立花寧拙(?-1745)の写本が立花家にある。
執筆者:熊倉 功夫
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利休流茶法の秘伝書と称される茶の本。利休高弟を称する堺(さかい)の南宗寺(なんしゅうじ)の塔頭(たっちゅう)集雲庵(しゅううんあん)第2世南坊宗啓(そうけい)が利休茶法を聞き書きしたものであるということから、最近まで『南坊(なんぼう)録』の名で伝承されてきたが、現在流布本の底本とされる福岡藩黒田氏家老立花実山(たちばなじつざん)の自筆本が『南方録』となっているため、表記のとおりとすることで定着したといえよう。全体の構成は、巻一「覚書」、巻二「会」、巻三「棚」、巻四「書院」、巻五「台子(だいす)」、巻六「墨引」、巻七「滅後」の七巻からなる。実山は本書発掘の経緯を「滅後」の奥書と、その著『岐路弁疑(きろべんぎ)』で述べている。それによると、1686年(貞享3)の秋、藩主黒田光之に従って江戸へ参勤する途次、京都からの書状で、利休秘伝の茶書を所持しているが必要ならば写して送るとのことであったため依頼しておいたところ、年末に江戸藩邸に最初の五巻が届いた。その後1690年(元禄3)の江戸参勤のおり、南坊の子孫という納屋宗雪(なやそうせつ)が同じく利休秘伝書二巻を所持していることを聞いて書写したのが「墨引」と「滅後」であるという。しかし、その発見が利休百年忌にあたることの不自然さ、福岡藩内における茶道事情とから考え合わせて、実山による偽書説などもあり、今後の研究をまって解明されることであろう。
[筒井紘一]
『西山松之助校注『南方録』(岩波文庫)』
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…茶がたてられるに先だって,客に食事がふるまわれる。わび茶の料理をことに〈懐石〉といい,これは《南方録(なんぼうろく)》によれば修行中の禅僧がひもじさをしのぐために懐中する温石の意からできた言葉で,粗末な食事の意味だというが,本来は〈会席〉であったのに当てた字であろう。しかし意図するところは,たしかに室町時代に発達した豪華ではあるが形式に堕してしまった宴会料理を簡素化することにあり,より食べやすく,おいしい料理に改善したのが茶の料理であった。…
…墨蹟ノカケ始也〉と記している。千利休は茶室の床飾りには墨跡を第一と主唱し,彼の門弟南坊宗啓はその著《南方録》中に,〈掛物ほど第一の道具はなし。客,亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也。…
※「南方録」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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