玉川村
たまかわむら
面積:四六・五六平方キロ
石川郡の北西部に東西に細長く広がり、東は平田村、南は石川町、西は西白河郡矢吹町・岩瀬郡鏡石町、北は須賀川市に接する。村域西端を阿武隈川が蛇行しながら北流し、竜崎の乙字ヶ滝付辺から東流、さらに北へ流れを変える。村内を西流する泉郷川(かつての玉川)は、小高付近で阿武隈川に合流する。東部地区(旧須釜村)は阿武隈高地の西縁丘陵地に位置し、標高は四〇〇―五〇〇メートル前後。西部地区(旧泉村)は阿武隈川東岸の平坦地が多く、標高は二四〇―三〇〇メートル前後で、西端部を南北にJR水郡線と国道一一八号が走る。村名の由来は、玉河宮と号したという長慶天皇陵墓の伝承地が小高にあることと、同地内の河岸崖から玉石が産出されることにちなむという。
玉川村
たまがわむら
[現在地名]都留市玉川
桂川の支流菅野川に戸沢川が合流する付近の右岸に位置し、戸沢川対岸に法能村宮原の集落がある。文禄―慶長期(一五九二―一六一五)のものと推定される四郡高〆控に村名はみえないが、同控に載る朝日村五四五石余のうちに含まれていた。「甲斐国志」に「戸沢・玉川、古ヘハ皆ナ朝日ト同村也」と記され、寛文検地の時はじめて別村となるとある。江戸時代の年未詳の村絵図(東京都牛田輝秋家蔵)には、から沢・上原・ももそね・さくと・神出・みね・横落・中田保・大田・金山・笠久保・下原・松木沢・穴口・下川原などの小字名がみえる。享保八年(一七二三)の村明細帳(牛田輝秋家文書)によると、高一〇〇石九斗二升四合、うち田方四六石余・三町九反余、畑方五四石余・八町二反余、ほかに高外の山畑五町三反余・柴山四町七反余、宝永二年(一七〇五)改の見取畑四反余がある。
玉川村
たまがわむら
[現在地名]小国町玉川
現小国町域の中央西端、荒川支流玉川の下流域にあり、米沢城下と越後方面を結ぶ越後街道の米沢藩領西端の宿駅。足野水村から西進し、萱野峠越で当村に入った越後街道は玉川を渡河、西方の大里峠を越えて越後国岩船郡畑村(現新潟県岩船郡関川村)を経て同郡下関宿(現同上)に通じる。主集落は同街道沿いに街村をなし、ほかに玉川沿いに玉川新田・下新田などの集落が点在する。主集落の西端には越後街道の本口番所が置かれた。天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録に小国のうちとして「玉川さひけ一間」とあり、上郡山民部大輔に加恩として与えられた。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一八〇石余、免一ツ八分、家数二六(うち役家四、肝煎・小走二)・人数一六〇、役木として桑をあげる。
玉川村
たまがわむら
[現在地名]田沢湖町玉川
玉川の狭い谷間に開けた小山村。東と北は南部領、南は田沢村に接する。
「梅津政景日記」寛永九年(一六三二)七月一九日条に佐渡から硫黄を求められ「玉川へ飛脚遣し候」とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に四四石新田とあるが、享保八年(一七二三)の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)には本田高五八石余、免三ツ成、当高二九石余、新田当高三石余、合計当高三四石九斗二升五合とあり、新田村ではない。
玉川村
たまがわむら
面積:一四・四九平方キロ
東松山市によって東西に分たれた比企郡のうち、西半の中央南部に位置し、西・北は小川町、南は都幾川村、東は嵐山町・鳩山町。外秩父山地の東縁を占め、東方の一部は岩殿丘陵にかかる。最高点は西方の雷電山(四一八・二メートル)で、同山から北方および東方へ尾根が延び、その山間を都幾川・槻川・雀川が流れる。北西部の村境を流れる槻川が南へ大きく蛇行する田黒には、戦国期に小田原北条氏の支城松山城(現吉見町)に属した遠山光景の居城であったと伝える小倉城がある。都幾川は村域の南方を流れ、支流雀川を南東部で合せる。
村域の中心集落であった玉川郷は都幾川の谷口集落で、山地と平地を結ぶ交通の要地にある。
玉川村
たまがわむら
[現在地名]両津市玉崎
南は小松村、北は才ノ神岩で坊ヶ崎村と接し、西は白瀬村山境、東は両津湾に面する。集落は中央を流れる玉川河口流域にある。玉川左岸牛欠後方六〇メートルの台地上には上の平の耕地がある。近世初めに和木村・坊ヶ崎村との山境争論がみられ、貞享元年(一六八四)の山境決証文(玉崎区有)がある。元禄七年(一六九四)の検地帳(同区有)は坊ヶ崎村と一つで、当村は田四町九反余・畑九反余。名請人一八人。享保一九年(一七三四)の年貢割付状(同区有)には茶畑二斗余がみえる。天保九年(一八三八)の書上帳(橘鶴堂文庫蔵)では戸口は一六軒・一一〇人、うち小羽へぎ(屋根職人)・家大工各一。
玉川村
たまがわむら
[現在地名]清水町玉川
伏見村の南東、境川の右岸に位置し、南は久米田村。境川対岸東方は伊豆国玉川村(現三島市)で、同村を東玉川村、当村を西玉川村ともよんだ(駿河志料)。元禄一一年(一六九八)旗本内藤領となり、幕末まで同領であった(国立史料館本元禄郷帳・「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳など)。寛永改高附帳では田高一九三石余・畑高三七石余。元禄郷帳では高二九五石余。用水は小浜池(現三島市)・千貫樋用水と、村の北部にある丸池を利用した。丸池は泉郷六ヵ村(久米田・戸田・畑中・的場・堂庭・湯川の各村)の用水でもあり、その管理・修復は当村を除いて泉郷六ヵ村が担っていた。
玉川村
たまがわむら
[現在地名]竜王町玉川
西八幡村の南にある。宝暦六年(一七五六)版の三郡村高帳では巨摩郡北山筋、「甲斐国志」では中郡筋、御料私料高別調では北山筋所属。慶長六年(一六〇一)の玉川村検地帳(県立図書館蔵)では反別田五町五反余・畑五町一反余、そのほか永不作田四町五反余・畑三町六反余。慶長古高帳では高二二三石余、ほかに飯喰村(現昭和町)の大宮(現熊野神社)神領一石余。貞享二年(一六八五)の検地帳(県立図書館蔵)では高二八八石余、反別田一七町六反余・畑一三町九反余。宝暦六年版の三郡村高帳では高三四一石余。
玉川村
たまがわむら
[現在地名]野田村玉川
野田村の南に位置。東半分は海岸段丘からなり、西半分に北上高地が続く。玉川・安家川が山地を深く削って北東に流れ海に入る。玉川河口の南台地に館跡がある。農耕地は北部海岸の段丘上および中央高原にわずかに開かれている。海岸沿いを浜街道が通る。正保国絵図に村名がみえ、無所務とある。元禄十郡郷帳では当村は野田村へ入るとある。天保八年(一八三七)の惣高書上帳(郷土史叢)などによれば高四六石余とあり、全村野田伊予の知行地であった。
玉川村
たまがわむら
[現在地名]三島市玉川・富田町など
三島町の南、狩野川支流の境川東岸に位置する。対岸は駿河国駿東郡玉川村(現清水町)。中世玉川郷の地。天正一八年(一五九〇)玉川郷の検地(同年一〇月一〇日「豆州玉川郷検地帳」玉川共有文書)、文禄三年(一五九四)玉川村の検地があった(同年九月「君沢郡玉川村検地帳」同文書)。元和二年(一六一六)当村の二〇〇石が大竹氏に宛行われている(「徳川家康知行宛行状」大竹家文書)。
玉川村
たまがわむら
[現在地名]鹿野町今市
今市村の南、勝見谷の最奥部、同谷と河内川流域が接する所に位置する。東は西志加奴村。「因幡志」によると、往古集落は当地で二流に分れる河内川(西側の流れを玉川ともよぶ)の間、見渡し一町余、長さ四―五町の中洲に立地していたが、近年玉川の西岸に民家を移転したという。拝領高は二八石余、本免は四ツ六分。藪役銀二匁七分が課せられていた(藩史)。
玉川村
たまかわむら
[現在地名]鶴田町妙堂崎
岩木山の東の通称妙堂山東麓に位置し、南は妙堂崎村に接する。
貞享四年(一六八七)の検地帳に妙堂崎村支村玉川村とあり、田方二六町七反六畝二三歩、畑方七町九畝七歩、田畑屋敷合せて三三町八反六畝、村高二五・八一七石、百姓二四人と記される。元禄三年(一六九〇)藤代組に属し、村位は下である(平山日記)。貞享四年の検地帳の貼紙に「此玉川村広須新田支配ニ被仰付候以後清水玉と御改被成候処享保十一午年郷村御改之節 前々之通玉川村と御改本村ニ御立被成候」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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玉川〔村〕
たまかわ
福島県中部,阿武隈川上流右岸から阿武隈高地西斜面にある村。 1955年須釜と泉の両村が合併成立。米作のほか野菜・果樹栽培,養豚も行われる。東福寺の舎利 (しゃり) 石塔は国の史跡に指定されている。西端を JR水郡線,国道 118号線が通る。面積 46.67km2。人口 6392(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の玉川村の言及
【厚木[市]】より
…神奈川県のほぼ中央にある市。1955年厚木町と南毛利,睦合(むつあい),小鮎,玉川の4村が合体,市制。人口20万8627(1995)。県央部を南下する相模川が中津川,小鮎川と合流する地点にあたり,丹沢,津久井の山地からの林産物と相模中央の農産物,相模湾から北上してくる海産物とが交易される河港として町が発生した。江戸時代以降は東海道の脇往還矢倉沢街道の宿駅として栄え,小江戸ともいわれた。明治中ごろ東海道本線が相模湾沿いに開通したことから,一時衰微したが,1920年代に神中(じんちゆう)線(現,相模鉄道線),JR相模線,27年に小田急線が開通し横浜,東京と直結するようになって勢いをとりもどした。…
※「玉川村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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