原町村(読み)はらまちむら

日本歴史地名大系 「原町村」の解説

原町村
はらまちむら

[現在地名]天童市原町・東芳賀ひがしはが二丁目

立谷たちや川扇状地北西部扇端に位置し、集落八幡はちまん山・越王こしおう山の南麓、山寺やまでら堰に沿って連なる。村の北西部になし清水・まつ清水などの湧泉がある。東は奈良沢ならざわ村・荻野戸おぎのと村、西は北目きため村。当初奈良沢村の枝郷で、寛永一六年(一六三九)検地以来独立村となり、一千九八二石余の奈良沢村は原町村一千六五石余・奈良沢村一千三四三石余と二分された(「検地帳」山形大学附属博物館蔵)。原町村は寛文八年(一六六八)上・下二村に分けられ、上原町村七四三石余は下野宇都宮藩領、下原町村三二一石余は幕府領となる。

原町村
はらまちむら

[現在地名]山川町原町

御牧おまき山南西麓にある薩摩街道の宿場町。原町・原ノ町・原之町ともいい、「はるのまち」ともよばれた(享和三年筑後国郡村仮名附帳など)。天正七年(一五七九)四月五日、大友義統は龍造寺方に寝返った田尻宗達跡の「原町」六町などを没収し、酒見太郎に与えている(「大友義統知行預ケ状」旧柳河藩領内三潴郡地理歴史考)。同一一年頃と推定される年月日欠田尻鑑種本領村数等覚書(田尻家文書/佐賀県史料集成七)に「はるのまち」とある。元和七年(一六二一)の郡村帳に原ノ町村とみえ、玄蕃高一五〇石余。

原町村
はらまちむら

[現在地名]小倉北区原町一―二丁目

到津いとうづ村の南東むらさき川と板櫃いたびつ川に挟まれた緩やかな台地に立地する。中央部を長崎街道が通る。正保国絵図に原町とみえ、元禄国絵図では原町は至津いとうづ村内と記されるが、天保郷帳では記載がない。幕末の各村覚書では本高二六〇石余、田一二町三反余・畠四町六反余、物成一三〇石余、竈数一八・人数六三、水神社などがある。

原町村
はらまちむら

[現在地名]門司区新原町しんはらまち別院べついん原町別院はらまちべついん柳原町やなぎはらまち

やなぎ村の南に位置する。元和八年人畜改帳に「馬寄村内原町」とみえ、高一〇六石余で家数二〇、人数四九(うち百姓九)、牛六・馬一。元禄国絵図および元禄豊前国高帳は原町村と記す。郷村高帳では高二八四石余、うち新田高一五石余。

原町村
はるまちむら

[現在地名]粕屋町原町

須恵すえ川の中流域に位置し、南は中原なかばる村。元禄国絵図に同村枝村として村名がみえる。元和年中(一六一五―二四)黒田長政篠栗ささぐり街道に町を立てたことに始まるという。新長者しんちようじや町と名付けられたが(続風土記)、のちに原町と変わった(地理全誌)。町立ては寛永元年(一六二四)とする説もある(同書)。石高書上帳案の郡帳高は一三四石余。

原町村
はらまちむら

[現在地名]砥用町原町

津留つる川の北にあり、北は小夏こなつ村、西は御前浜ごぜんはま村、南は川を境として津留村などと接する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高三三石二斗余で畠方のみである。砥用手永に属し、肥後国中寺社御家人名附によれば、在町として毎月二日・一二日・二二日に市立が行われ、通称原町という。中心部はもとは村の北部の高台にあったが、水利が悪く、加えて弘化二年(一八四五)四月、嘉永四年(一八五一)九月大火に遭い、嘉永五年現在地へと移転、山間部の生産物の集約地、商業交易の核として栄えた。

原町村
くずはらまちむら

[現在地名]小倉南区葛原本町くずはらほんまち一―三丁目

竹馬ちくま川左岸にあり、葛原村に東・南・西の三方が囲まれる。中津街道が通る。元和八年人畜改帳に葛原新町とみえ、御蔵納分の高三一石余、給人一人分の高七九石余の二筆で、家数二八、人数五四(うち百姓五・名子一一)、牛五・馬二。宝永三年(一七〇六)検地帳(企救郡誌)では田畠二五町余。郷村高帳では高三七五石余、うち新田高一三九石余。幕末の各村覚書では本高二三五石余、田一二町四反余・畠四町五反余、物成七七石余、竈数二二・人数一〇八、牛一四・馬二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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