日本大百科全書(ニッポニカ) 「反芸術」の意味・わかりやすい解説
反芸術
はんげいじゅつ
既存の芸術の枠組みを批判し、新しい表現や様式を生み出そうとする思考や運動の総称。展覧会、美術館、美術教育などの制度を通じて権威化、硬直化した美術に対する批判、不満として現れる。理論上の反芸術的傾向はいつの時代でも、どこの地域においても広く認められ、またその形態もさまざまなバリエーションが考えられるが、日本の第二次世界大戦後の美術においては、1960年代初頭、無審査・自由出品をうたい文句とし、無秩序で反体制的な雰囲気のもと多くの若手アーティストが個性を競った読売アンデパンダン展を取り巻いていた、エネルギッシュな喧騒状態を指す場合が多い。
1960年(昭和35)の同展において、工藤哲巳はオブジェ作品『増殖性連鎖反応』を発表し賛否両論の物議をかもしたが、美術評論家東野芳明(とうのよしあき)が『読売新聞』の展覧会評でこの作品を擁護する立場から「反芸術」という言葉を用いた。これが「反芸術」への最初の言及で、以後これを機に、工藤をはじめネオ・ダダイズム・オルガナイザーズやハイレッド・センター(高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之)など当時頭角を現しつつあった若手アーティストの、ややもすると反社会的、挑発的な性格をもった作品を肯定的に評価して「反芸術」と称する機会が増えた。ほかにも「反絵画」「反彫刻」「反批評」などの呼称が相次いで登場、また演劇や文学の領域でも「アンチ・テアトル」「アンチ・ロマン(ヌーボー・ロマン)」などの呼称が頻繁に用いられていたことから、「反――」という呼称が当時一種の知的流行であったことがうかがえる(もちろんこの問題提起には、自らが「反」をつきつける当の対象に依存しなければ肝心の表現行為が成り立たないという逆説も含まれている)。なお、「反芸術」の発信拠点であった読売アンデパンダン展はその後一層混乱の度を増し、63年の第15回展を最後に開催中止が決定、翌64年1月にはそれを受けてブリヂストン美術館ホールで東野が司会を務めた公開討論会「反芸術 是か非か」に多くの若手作家が参加、「反芸術」の熱狂はピークを迎えた。
しかし、読売アンデパンダン展をめぐる状況全体を「反芸術」のもとにとらえる立場には、当時から異論もあった。例えば、討論会のパネラーであった美術評論家宮川淳は『美術手帖』64年4月号に「反芸術――その日常性への下降」と題するエッセイを発表。「反芸術」を「芸術を芸術たらしめる基準が存在しない」状況下での芸術として高く評価する一方、読売アンデパンダン展周辺の混乱を「ロカビリー的喧騒」下での「非芸術」にすぎないと断じて、当時の混乱状況全般に好意的であった東野の立場に対する疑義を表明した。結局両者の意見の相違はその後論争として深化されることはなかったが、「反芸術」の熱狂の核心をどこに見るのかというこの問題は、60年代前半の状況を如実に物語るものであった。また、「反芸術」の若手美術家のなかでも最も過激だったハイレッド・センターは、読売アンデパンダン展の中止後に「ミキサー計画」と題したパフォーマンスに着手し、赤瀬川の挑発的な作品は「千円札裁判」を引き起こした。
[暮沢剛巳]
『椹木野衣著『日本・現代・美術』(1998・新潮社)』