千円札裁判(読み)せんえんさつさいばん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

千円札裁判
せんえんさつさいばん

1963年(昭和38)から翌1964年にかけて、画家、作家の赤瀬川原平が個展等で立て続けに発表した千円札を模した作品が、通貨及証券模造取締法第1条に抵触するとして罪に問われ、裁判で争われた事件。当時20代の若手アーティストだった赤瀬川は、武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)在学中より読売アンデパンダン展に出品するなど前衛色の強い活動を展開しており、この当時は高松次郎、中西夏之(なつゆき)と結成した前衛芸術集団「ハイレッド・センター」の活動の最盛期であった。千円札を模した一連の作品も、当然その活動の一環に位置付けられた。赤瀬川が初めて千円札を模した作品を出品したのは1963年の個展「あいまいな海」(新宿第一画廊、東京)においてである。このときに出品されたのは、畳大に引き伸ばされた千円札とそれを用いた梱包作品であった。展覧会告知にあたっては、原寸大の模造千円札を現金書留に入れて送付するという貨幣の流通形態を意図的に撹乱する手法が取られた。
 以後赤瀬川は、同年の第15回読売アンデパンダン展にも同種の作品を出品したほか、テレビ番組「ヤング720(セブンツーオー)」などにも出演、生放送中に模造千円札を燃やすなどのパフォーマンスを次々と展開する。この挑発的な行為が警察当局の目に止まり、同年末に印刷所の取り調べが行われた後、1964年には赤瀬川本人の取り調べや書類送検、さらに1965年11月には一連の作品が証拠として押収され、東京地裁に起訴される事態にまで発展した。この一件に関して警察が強硬姿勢で臨んだのは、当時「チ-37事件」とよばれる偽札事件が世間を騒がせ、通貨の信用不安に対して警察当局が神経過敏だったことが強く影響している。
 もちろん、赤瀬川側はこの措置に反発、「千円札事件懇談会」を結成し、以後法廷を舞台に表現の正統性を主張することとなった。赤瀬川側は一連の作品が芸術であることを一貫して主張、美術評論家の滝口修造や中原佑介が特別弁護人を務めたほか、「ハイレッド・センター」のメンバーである高松や中西をはじめ画家福沢一郎、篠原有司男(うしお)(1932― )、池田龍雄(1928― )、音楽評論家秋山邦晴(1929―1996)、美術家・作曲家刀根康尚(とねやすなお)、フランス文学者澁澤龍彦、哲学者山田宗睦(むねむつ)(1925― )、グラフィック・デザイナー粟津潔(1929―2009)、当時の『美術手帖』編集長らが証人として次々と出廷、「表現の自由」と観念の世界の出来事である芸術を法で裁くことの不当性を訴えた。また起訴の法的根拠となった通貨及証券模造取締法が明治時代に制定された古い法律で、現行憲法に違反していると主張した。一方の検察側は、赤瀬川作品が結果として千円札の模造品とみなせることが問題なのであり、芸術か否かは問題ではないとの立場に終始して、その不当性を訴えた。
 東京地裁の第一審(1967)では、一連の作品が模造紙幣とみなされる危険を回避できない以上、通貨に対する社会的信用が創作者の表現の自由に優先するとの判断を示し、検察側の主張をほぼ全面的に認め、赤瀬川には懲役3か月、執行猶予1年の有罪判決が下された。東京高裁での控訴審(1968)、最高裁での上告審(1970)でもこの判断は変わらず、赤瀬川側の敗訴が確定した。デザインのみならず流通形態まで本物の紙幣に似せたコンセプチュアルな作品が現行法に抵触したことにより、表現の自由をはじめ、本物と偽物の境界、反芸術と芸術の関係など、さまざまな問題が問われることになった。また、赤瀬川は1967年に「零(ぜろ)円札」の作品を発表、単なる模造とは異なる独自の問題意識を示した。この事件は、第二次世界大戦後の日本美術史でも特異かつ重要なものとして長く記憶されるべきものである。[暮沢剛巳]
『針生一郎著『戦後美術盛衰史』(1979・東京書籍) ▽椹木野衣著『日本・現代・美術』(1998・新潮社) ▽熊谷真美著『千円札裁判の記録』(1998・ナゴミ書房) ▽赤瀬川原平著『反芸術アンパン』(ちくま文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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