日本歴史地名大系 「古坊中」の解説
古坊中
ふるぼうちゆう
阿蘇山出現御座ス」とより詳細に記してある。「国誌」は同様な最栄の紹介に続けて、阿蘇明神は和修吉龍王で、天竺摩訶陀国から飛来したという説と、青龍神であるとする二説を記している。阿蘇明神を龍神とみなす説が近世初期にかなり流布していたらしく、井沢蟠龍は元禄三年に著した「阿蘇宮記」で泰澄伝説と併せて龍神説にふれ、龍は健磐龍命の名に付会するもので、「神武の皇孫なり。龍神にあらず」と強く否定している。神亀三年の天竺の最栄読師開基説に対して、元禄から宝永(一七〇四―一一)にかけて大宮司職にあった阿蘇友隆は阿蘇宮由来略(「国誌」所収)を著し、天養元年(一一四四)比叡山の慈恵の徒最栄が、大宮司友孝に請うて阿蘇山に住み、十一面観音を彫り、法華経を読誦したので最栄読師とよんだと、まったく異なる説を掲げる。この説は慈恵は一〇世紀の人であり、年代的に矛盾がみられる。
古坊中の滅亡の具体的な原因を明らかにする資料はないが、おそらく火山活動の活発化による山上堂宇の荒廃と、天正一五年(一五八七)の豊臣秀吉の九州出兵が惹起した政治的混乱によって衰退したとみられる。慶長四年(一五九九)加藤清正は山麓のや置香炉・硯などが採集されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報