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孔子(こうし)(前552/551―前479)の言行録。10巻20篇。儒家の通説では、孔子の死後、弟子たちがそれまでに書き留めていた師匠の語を論纂(さん)してつくった。ただし実際は、直(じき)弟子ではなく、弟子の弟子の手になる。その証拠に、『論語』のなかに出てくる弟子の称呼は呼び捨てが原則であるのに、曽参(そうしん)と有若(ゆうじゃく)だけは、曽子・有子と、敬称の「子」をつけてよばれる。これは、『論語』が曽参・有若の弟子によって編まれたことを物語る(唐の柳宗元(りゅうそうげん)らの説)。さらに、『論語』の前半と後半とでは文体がやや異なること、後半には小説的ストーリーもあることから、後半は三伝または数伝の弟子の手になるものであろう〔清(しん)の崔述(さいじゅつ)、日本の伊藤仁斎(じんさい)の説〕。
[本田 濟]
秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の焚書(ふんしょ)のあと、漢朝は広く書物を捜し求めた。『論語』には3種のテキストがあった。魯(ろ)に伝わる魯論20篇、斉(せい)に伝わる斉論22篇、孔子の子孫の家の壁に塗り込められていた古論21篇などである。漢末の張禹(ちょうう)は、魯論と斉論を折衷して張侯論20篇を定め、これが普及した。後漢(ごかん)の鄭玄(じょうげん)は、魯・斉・古の3種を折衷して篇数を20とした。今日伝わる『論語』は鄭玄本の系統である。
[本田 濟]
各篇には学而(がくじ)とか為政とかの篇(へん)名がつけられている。これはその篇の最初の文章「学而時習之」「為政以徳」の冒頭の2字をとったもので、とくに意味はない。各篇は平均25章の短文からなり、かならずしも統一したテーマで貫かれているわけでない。ただ、おのずと類似の話題が多く集まってはいる。たとえば、学而篇には初学の者への教訓が多く、為政篇には政治の議論が多い、というように。『論語』の文章は、孔子が機(おり)に触れて人に語ったことばをそのまま記録する。そこには体系化された理論はない。マックス・ウェーバーが「インディアンの老首長(しゅちょう)の語り口に似る」と評したとおり(『儒教と道教』)。ただし、体系的な哲学論文にはみられない、生き生きした人間的叡智(えいち)がここにはある。例、「子曰(しのたまわ)く、学んで時にこれを習う。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り遠方より来(きた)る。亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)まず。亦君子ならずや」(学而篇)。「厩(うまや)焚(や)けたり。子、朝(ちょう)より退(しりぞ)きて、曰く、人を傷(やぶ)れりや、と。馬を問わず」(郷党篇)。『論語』の文章はなんの飾り気もない。しかし簡潔ななかに自然のリズムと抑揚とがあり、読む人を飽かせない。伊藤仁斎が「宇宙第一の書」と評したのは当たっている。
[本田 濟]
『論語』の注釈は数多いが、代表的なのは、三国魏(ぎ)の何晏(かあん)が何人かの説を集めて編んだ『論語集解(しっかい)』、南宋(なんそう)の朱熹(しゅき)(朱子)が新しい哲学理論で解釈した『論語集註(しっちゅう)』。前者を古注、後者を新注という。古注を敷衍(ふえん)解釈したのが宋の邢昺(けいへい)の疏(そ)で『十三経注疏』に収められる。梁(りょう)の皇侃(おうがん)による『論語義疏』は本国で早く滅び、日本に残存した。後漢(ごかん)の鄭玄(じょうげん)の『論語』注は唐末に滅んだが、20世紀初めに敦煌(とんこう)で発見された古写本と、1969年トルファンで発見された唐写本によって7編ほどが判明した。清(しん)の劉宝楠(りゅうほうなん)の『論語正義』は訓詁(くんこ)考証にもっとも詳細である。日本の伊藤仁斎の『論語古義』、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の『論語徴(ちょう)』には独創的解釈がみられる。
[本田 濟]
『論語』は漢代すでに「五経」と並ぶ地位にあった(『漢書(かんじょ)』芸文志(げいもんし))。宋代以降これに『孟子(もうし)』『大学』『中庸(ちゅうよう)』を加えて「四書」とよばれる。日本には仁徳(にんとく)朝に百済(くだら)人が『論語』を舶載してきた。西洋の各国語にも訳され広く読まれた。
[本田 濟]
『金谷治訳注『論語』(岩波文庫)』▽『吉川幸次郎訳注『論語』(1966・朝日新聞社)』▽『木村英一訳注『論語』(1975・講談社)』▽『平岡武夫訳注『論語』(1980・集英社)』
中国の古典。儒教の代表的な経典,四書の第一。孔子の言論を主として,門人その他の人々との問答などを集めた語録で,20編。儒教の開祖孔子(前551-前479)の思想をみる第一の資料で,また儒教思想の真髄を伝えるものとして後世に大きな影響を与えてきた。内容は,社会的人間としての個人のあり方と国家の政治にかかわる道徳思想を主としているが,中心の主張は忠(まごころ)にもとづく人間愛としての仁の強調であって,親への孝行,年長者への悌順などとともに,利欲を離れて自己を完成させる学の喜びなども述べられている。総じて楽天的な明るさに満ち,断片的な言葉の集積を通して調和を得た孔子の人格や孔子学団のようすがよくうかがえる。
学而(がくじ)篇第一から尭曰(ぎようえつ)篇第二十に至るが,編名は各編の初めの字を取っただけの便宜的なものである。また各編ごとの特色も概して少ない。その成立は,おそらく門人たちの記録に始まり,後からの種々の記録も重なり,やがて整理が施されて書物の形をとることになったもので,漢代では《古論語》21編,《魯論語》20編,《斉論語》22編という3種が伝えられていた。後漢の時代に,張禹がその《魯論語》を中心とした三者の校定本(〈張侯論語〉)を作り,それが今に伝わる《論語》となった。
漢の武帝のとき(前136)儒教が国教となって五経が尊重されると,聖人孔子の像の確立とともに《論語》と《孝経》も五経に準じて尊重され,その後,朝廷の詔勅や上奏文その他に多く引用されるようになった。後漢では都の太学の前に石経として本文が刻まれ(175),また注釈も多く作られるようになった。それらの注釈はほとんど滅びたが,魏の何晏(かあん)の《論語集解(しつかい)》は漢の孔安国や鄭玄(じようげん)(鄭注とよばれ,敦煌からの発見と近年のアスターナの発見とで約2分の1が残る)など八家の注に自説を加えたもので,古注の代表として今日まで伝わっている。
やがて南宋の朱熹(しゆき)(子)によって朱子学が成立し《論語集注》(新注)が著されると(13世紀),五経に代わって四書が重視され,《論語》はその筆頭として絶対の権威をもつようになった。聖人孔子の人格と結びついて,人々の現実的な実践目標を明示する厳しい倫理的要請の書とされたのである。
元以後,朱子学の盛行とともに《論語》はそうした形でひろく伝播し,政治的な利用もあって庶民のあいだにも大きな影響を及ぼしたが,また朝鮮,日本,安南(ベトナム)などにも広く伝わり,ヨーロッパにも17世紀にイエズス会士の手で翻訳紹介された。日本では,応神天皇16年に百済(くだら)の王仁(わに)が来て《論語》と《千字文》を献上したのが漢籍渡来の初めだとされる。奈良時代,養老令の学令では《論語》は《孝経》と並んで必読の書とされ,すでにすこぶる重視されていた。平安時代では明経博士が世襲的に講学したが,種々の文書類での引用や《論語》の抄写も盛んに行われた。南朝の正平年間に出版された《論語集解》(1364)は現存最古の刊本である。
朱子の新注の渡来は鎌倉時代で,その後五山の学僧のあいだで学ばれた。江戸時代に入ると,朱子学を官学と定めて儒学を秘伝から解放したため,朱子の《集注》はひろく読まれるようになり,江戸後期では藩学はもとより庶民教育の寺子屋にまで浸透した。朱子学に対抗する学派でもやはり《論語》が中心で,それぞれに独自の注釈を著した。伊藤仁斎の《論語古義》や荻生徂徠の《論語徴》は特に有名である。出版もきわめて盛んで,《論語》は,明治の初期までの日本の知識人の思想形成の上で欠かすことができないものとなっていた。
近代になると,中国では,朱子学流の窮屈な倫理的解釈に反発して,《論語》はたびたび批判の対象となった。中国革命の進展のなかで,例えば五・四運動,そして近ごろの文化大革命の中でのような激しい攻撃にもさらされた。
→儒教
執筆者:金谷 治
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孔子とその弟子たちとの問答・言行の記録とされる中国儒教の経典。四書の一つ。10巻20編。内容上,2~3伝の弟子時代の編集部分と,4~5伝の弟子時代の続集部分とが指摘される。前2世紀の漢初に魯(ろ)国所伝の魯論,斉国所伝の斉論,孔子旧宅壁中発見の古論の3テキストがあり,これらを校合し整理したテキストが継承され,現行テキストとなる。前2世紀後半,儒教が国教の扱いをうけて以来,国政に影響を与える。宋代の10世紀後半以後,理学理論構成の基礎を担った。
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…孔子が大司寇となり宰相の職務を代行したのが事実ならば,当然その名とその活躍が記録されたはずである。《論語》にも孔子が高位に登って敏腕をふるった記事は見あたらない。《論語》に見えるのは,志を得ない,真摯な学匠としての孔子像である。…
…中国の《論語》《孟子》《大学》《中庸》の総称。〈学庸論孟〉ともいい,儒教思想の真髄を得たものとして宋の朱子学以来尊重されてきた。…
…上級武士の基礎的な教育は,家庭教育の一環として行われることもあったが,すでに平安時代末に平経正が7歳で仁和寺に入って学んでいることからも知られるように,寺で学ぶことが多く,この形態は室町時代には一般化した。毛利氏の家臣玉木吉保は,13歳のときから安芸の勝楽寺で3年間学んだが,その内容は,第1年目は,いろは・仮名文・漢字の手習い,《庭訓往来》などの往来物や《貞永式目》《童子教》《実語教》などの読書,第2年目は,漢字の手習い,《論語》《和漢朗詠集》などの読書,第3年目は,草行真の手習い,《万葉集》《古今和歌集》《源氏物語》などの読書,和歌・連歌の作法などを学び修了している。ここでは,算術は学ばれていないが,尼子氏の家臣多胡辰敬の家訓には,第1に手習い・学問,第2に弓術,第3に算用の勉学の必要をあげており,これら地方武士においても計算能力が重視されるようになったことが知られる。…
…論は言と侖(りん)よりなり,侖は理,すなわち筋道のことで,筋道を正して言うのが論の原義である。〈論〉を書名とする《論語》が名付けられた理由を,後漢の鄭玄(じようげん)は〈論は綸なり,輪なり,理なり,次なり,撰なり〉と説く。綸は世務を経綸すること,輪は円転無窮の意,理は万理を蘊令(つつ)むこと,次は論述に秩序あること,撰は群賢が定稿を編集する意,というのが鄭玄の解釈であるが,この解釈は文体としての〈論〉にそのまま適用できる。…
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