論語(読み)ロンゴ

デジタル大辞泉 「論語」の意味・読み・例文・類語

ろんご【論語】

中国の思想書。20編。孔子没後、門人による孔子の言行記録を、儒家の一派が編集したもの。四書の一。処世の道理、国家・社会的倫理に関する教訓、政治論、門人の孔子観など多方面にわたる。日本には応神天皇の時代に百済くだらを経由して伝来したといわれる。

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共同通信ニュース用語解説 「論語」の解説

論語

論語ろんご 古代中国の思想家孔子こうしの言葉をまとめた本。孔子は、人が守らなければならないことや、国を治める心がまえなどを教えた「儒教じゅきょう」のもとをつくった。日本や朝鮮ちょうせん半島をはじめアジアのくにぐににも、大きな影響えいきょうをあたえた。

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精選版 日本国語大辞典 「論語」の意味・読み・例文・類語

ろんご【論語】

  1. 中国の経書。二〇編。各編冒頭の文字をとって編名とする。四書の一つ。孔子の言行や弟子・諸侯・隠者との対話を記したもので、孔子の生前から記録され、その没後、門弟によって編纂されたと推定されている。人間の最高の徳として「仁」をおき、そこにいたる道を礼と楽とを学ぶことに求める。儒教の原初的な理念、また周代の政治、社会情況を窺い知る上でも、最も基本的な資料。日本には応神天皇一六年百済から伝来したという。古注としては何晏の「論語集解」と、それにさらに注釈を加えた皇侃の「論語義疏」、邢昺の「論語正義」があり、新注は朱熹の「論語集注」。円珠経

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「論語」の意味・わかりやすい解説

論語
ろんご

孔子(こうし)(前552/551―前479)の言行録。10巻20篇。儒家の通説では、孔子の死後、弟子たちがそれまでに書き留めていた師匠の纂(さん)してつくった。ただし実際は、直(じき)弟子ではなく、弟子の弟子の手になる。その証拠に、『論語』のなかに出てくる弟子の称呼は呼び捨てが原則であるのに、曽参(そうしん)と有若(ゆうじゃく)だけは、曽・有と、敬称の「子」をつけてよばれる。これは、『論語』が曽参・有若の弟子によって編まれたことを物語る(唐の柳宗元(りゅうそうげん)らの説)。さらに、『論語』の前半と後半とでは文体がやや異なること、後半には小説的ストーリーもあることから、後半は三伝または数伝の弟子の手になるものであろう〔清(しん)の崔述(さいじゅつ)、日本の伊藤仁斎(じんさい)の説〕。

[本田 濟]

テキスト

秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の焚書(ふんしょ)のあと、漢朝は広く書物を捜し求めた。『論語』には3種のテキストがあった。魯(ろ)に伝わる魯論20篇、斉(せい)に伝わる斉論22篇、孔子の子孫の家の壁に塗り込められていた古論21篇などである。漢末の張禹(ちょうう)は、魯論と斉論を折衷して張侯論20篇を定め、これが普及した。後漢(ごかん)の鄭玄(じょうげん)は、魯・斉・古の3種を折衷して篇数を20とした。今日伝わる『論語』は鄭玄本の系統である。

[本田 濟]

内容

各篇には学而(がくじ)とか為政とかの篇(へん)名がつけられている。これはその篇の最初の文章「学而時習之」「為政以徳」の冒頭の2字をとったもので、とくに意味はない。各篇は平均25章の短文からなり、かならずしも統一したテーマで貫かれているわけでない。ただ、おのずと類似の話題が多く集まってはいる。たとえば、学而篇には初学の者への教訓が多く、為政篇には政治の議論が多い、というように。『論語』の文章は、孔子が機(おり)に触れて人に語ったことばをそのまま記録する。そこには体系化された理論はない。マックス・ウェーバーが「インディアンの老首長(しゅちょう)の語り口に似る」と評したとおり(『儒教と道教』)。ただし、体系的な哲学論文にはみられない、生き生きした人間的叡智(えいち)がここにはある。例、「子曰(しのたまわ)く、学んで時にこれを習う。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り遠方より来(きた)る。亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)まず。亦君子ならずや」(学而篇)。「厩(うまや)焚(や)けたり。子、朝(ちょう)より退(しりぞ)きて、曰く、人を傷(やぶ)れりや、と。馬を問わず」(郷党篇)。『論語』の文章はなんの飾り気もない。しかし簡潔ななかに自然のリズムと抑揚とがあり、読む人を飽かせない。伊藤仁斎が「宇宙第一の書」と評したのは当たっている。

[本田 濟]

注釈

『論語』の注釈は数多いが、代表的なのは、三国魏(ぎ)の何晏(かあん)が何人かの説を集めて編んだ『論語集解(しっかい)』、南宋(なんそう)の朱熹(しゅき)(朱子)が新しい哲学理論で解釈した『論語集註(しっちゅう)』。前者を古注、後者を新注という。古注を敷衍(ふえん)解釈したのが宋の邢昺(けいへい)の疏(そ)で『十三経注疏』に収められる。梁(りょう)の皇侃(おうがん)による『論語義疏』は本国で早く滅び、日本に残存した。後漢(ごかん)の鄭玄(じょうげん)の『論語』注は唐末に滅んだが、20世紀初めに敦煌(とんこう)で発見された古写本と、1969年トルファンで発見された唐写本によって7編ほどが判明した。清(しん)の劉宝楠(りゅうほうなん)の『論語正義』は訓詁(くんこ)考証にもっとも詳細である。日本の伊藤仁斎の『論語古義』、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の『論語徴(ちょう)』には独創的解釈がみられる。

[本田 濟]

影響

『論語』は漢代すでに「五経」と並ぶ地位にあった(『漢書(かんじょ)』芸文志(げいもんし))。宋代以降これに『孟子(もうし)』『大学』『中庸(ちゅうよう)』を加えて「四書」とよばれる。日本には仁徳(にんとく)朝に百済(くだら)人が『論語』を舶載してきた。西洋の各国語にも訳され広く読まれた。

[本田 濟]

『金谷治訳注『論語』(岩波文庫)』『吉川幸次郎訳注『論語』(1966・朝日新聞社)』『木村英一訳注『論語』(1975・講談社)』『平岡武夫訳注『論語』(1980・集英社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「論語」の意味・わかりやすい解説

論語 (ろんご)
Lún yǔ

中国の古典。儒教の代表的な経典,四書の第一。孔子の言論を主として,門人その他の人々との問答などを集めた語録で,20編。儒教の開祖孔子(前551-前479)の思想をみる第一の資料で,また儒教思想の真髄を伝えるものとして後世に大きな影響を与えてきた。内容は,社会的人間としての個人のあり方と国家の政治にかかわる道徳思想を主としているが,中心の主張は忠(まごころ)にもとづく人間愛としてのの強調であって,親への孝行,年長者への悌順などとともに,利欲を離れて自己を完成させる学の喜びなども述べられている。総じて楽天的な明るさに満ち,断片的な言葉の集積を通して調和を得た孔子の人格や孔子学団のようすがよくうかがえる。

 学而(がくじ)篇第一から尭曰(ぎようえつ)篇第二十に至るが,編名は各編の初めの字を取っただけの便宜的なものである。また各編ごとの特色も概して少ない。その成立は,おそらく門人たちの記録に始まり,後からの種々の記録も重なり,やがて整理が施されて書物の形をとることになったもので,漢代では《古論語》21編,《魯論語》20編,《斉論語》22編という3種が伝えられていた。後漢の時代に,張禹がその《魯論語》を中心とした三者の校定本(〈張侯論語〉)を作り,それが今に伝わる《論語》となった。

 漢の武帝のとき(前136)儒教が国教となって五経が尊重されると,聖人孔子の像の確立とともに《論語》と《孝経》も五経に準じて尊重され,その後,朝廷の詔勅や上奏文その他に多く引用されるようになった。後漢では都の太学の前に石経として本文が刻まれ(175),また注釈も多く作られるようになった。それらの注釈はほとんど滅びたが,魏の何晏(かあん)の《論語集解しつかい)》は漢の孔安国や鄭玄(じようげん)(鄭注とよばれ,敦煌からの発見と近年のアスターナの発見とで約2分の1が残る)など八家の注に自説を加えたもので,古注の代表として今日まで伝わっている。

 やがて南宋の朱熹(しゆき)(子)によって朱子学が成立し《論語集注》(新注)が著されると(13世紀),五経に代わって四書が重視され,《論語》はその筆頭として絶対の権威をもつようになった。聖人孔子の人格と結びついて,人々の現実的な実践目標を明示する厳しい倫理的要請の書とされたのである。

 元以後,朱子学の盛行とともに《論語》はそうした形でひろく伝播し,政治的な利用もあって庶民のあいだにも大きな影響を及ぼしたが,また朝鮮,日本,安南(ベトナム)などにも広く伝わり,ヨーロッパにも17世紀にイエズス会士の手で翻訳紹介された。日本では,応神天皇16年に百済(くだら)の王仁(わに)が来て《論語》と《千字文》を献上したのが漢籍渡来の初めだとされる。奈良時代,養老令学令では《論語》は《孝経》と並んで必読の書とされ,すでにすこぶる重視されていた。平安時代では明経博士が世襲的に講学したが,種々の文書類での引用や《論語》の抄写も盛んに行われた。南朝の正平年間に出版された《論語集解》(1364)は現存最古の刊本である。

 朱子の新注の渡来は鎌倉時代で,その後五山の学僧のあいだで学ばれた。江戸時代に入ると,朱子学を官学と定めて儒学を秘伝から解放したため,朱子の《集注》はひろく読まれるようになり,江戸後期では藩学はもとより庶民教育の寺子屋にまで浸透した。朱子学に対抗する学派でもやはり《論語》が中心で,それぞれに独自の注釈を著した。伊藤仁斎の《論語古義》や荻生徂徠の《論語徴》は特に有名である。出版もきわめて盛んで,《論語》は,明治の初期までの日本の知識人の思想形成の上で欠かすことができないものとなっていた。

 近代になると,中国では,朱子学流の窮屈な倫理的解釈に反発して,《論語》はたびたび批判の対象となった。中国革命の進展のなかで,例えば五・四運動,そして近ごろの文化大革命の中でのような激しい攻撃にもさらされた。
儒教
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百科事典マイペディア 「論語」の意味・わかりやすい解説

論語【ろんご】

孔子の書とされる儒教の経典。四書五経の一つ。20編からなる。孔子とその弟子たちの問答,言行録の形をとり,孔子の弟子に対する愛情のある言葉や,先覚者としての孤高な独白もある。また,弟子の顔回,子路,子貢などそれぞれの個性が描かれる。その説くところは日常生活に即した実践的倫理であり,孔子の思想を最もよく伝える。成立に関しては諸説あり,現在では孔子の弟子たちの伝えた言行録が3系統あったものを孟子(もうし)の時代に編集して,現行《論語》の原本ともいうべき《古論語》が成立し,それが漢代までに選択整理されたと考えられている。《論語》は儒教経典が五経であったころからとりわけ必読の書とされていたが,魏の何晏(かあん)の《論語集解(しっかい)》などを経て,朱熹(朱子)の《論語集註》が出て四書に加えられてから,《孝経》とともに科挙の書目に入り,最重要の経典とされた。日本には,《日本書紀》によれば応神天皇16年,百済の王仁(わに)により将来されたという。以後江戸末期に至るまで多くの注釈書が出た。
→関連項目伊藤仁斎孝経古文白話

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「論語」の意味・わかりやすい解説

論語
ろんご
Lun-yu; Analects of Confucius

中国,儒教の根本文献。 20編。孔子とその門弟との問答を主とし,孔子の行為,その高弟の言葉を合せて記録しており,孔子の教えを伝える最も確実な古文献。短い文章の間に,孔子の人物,道徳説樹立の苦心,それぞれ個性のある弟子たちの勉学の様子などがまざまざと偲ばれる。その編者について諸説があるが,孫弟子以後であることは確かであり,しかも上論 (前半部の 10編) と下論とでは文体に相違があるので,何人かの編集である。前漢時代には,斉論,魯論,古論,そのほか,多少の相違のあるテキストがあり,それらを前1世紀の人張萬が校定し,さらに後漢の鄭玄 (じょうげん) が校定して現存する『論語』の本文が定まった。魏の何晏 (かあん) の『論語集解』 (古注という) が久しく行われていた。その後続々注釈書が出るようになったが,なかでも宋の朱子の『論語集注』 (新注という) が最も広く行われた。日本には中国文化渡来の最初に来たとされており,日本人のすぐれた注釈書も多い。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「論語」の解説

論語
ろんご

孔子とその弟子たちとの問答・言行の記録とされる中国儒教の経典。四書の一つ。10巻20編。内容上,2~3伝の弟子時代の編集部分と,4~5伝の弟子時代の続集部分とが指摘される。前2世紀の漢初に魯(ろ)国所伝の魯論,斉国所伝の斉論,孔子旧宅壁中発見の古論の3テキストがあり,これらを校合し整理したテキストが継承され,現行テキストとなる。前2世紀後半,儒教が国教の扱いをうけて以来,国政に影響を与える。宋代の10世紀後半以後,理学理論構成の基礎を担った。

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旺文社世界史事典 三訂版 「論語」の解説

論語
ろんご

孔子とその弟子たちの対話・言行録
孔子の死後編纂 (へんさん) され,数種類の異本が生じたが,後漢 (ごかん) の時代に現行本が作られ,何晏 (かあん) の『論語集解』にまとめられた。のち,南宋の朱熹 (しゆき) が『論語集註』を著してから,四書の筆頭となり,儒学の入門書として推賞された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「論語」の解説

『論語』(ろんご)

四書の一つ。孔子とその弟子たちの言行・対話集。孔子の死後弟子たちが編纂した。初学必修の書として重視され,日本にも大きな影響を与えた。

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とっさの日本語便利帳 「論語」の解説

『論語』

孔子(名は丘。前五五一~四七九)の七〇年余にわたる生涯での政治的、社会的あるいは内省的発語を、のちに弟子たちが主に師との対話の形で記録したもの。現行のもの(二〇篇)は後漢時代に定着、人生の知恵の書として長く広く読まれてきた。

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世界大百科事典(旧版)内の論語の言及

【孔子】より

…孔子が大司寇となり宰相の職務を代行したのが事実ならば,当然その名とその活躍が記録されたはずである。《論語》にも孔子が高位に登って敏腕をふるった記事は見あたらない。《論語》に見えるのは,志を得ない,真摯な学匠としての孔子像である。…

【四書】より

…中国の《論語》《孟子》《大学》《中庸》の総称。〈学庸論孟〉ともいい,儒教思想の真髄を得たものとして宋の朱子学以来尊重されてきた。…

【読み書きそろばん(読み書き算盤)】より

…上級武士の基礎的な教育は,家庭教育の一環として行われることもあったが,すでに平安時代末に平経正が7歳で仁和寺に入って学んでいることからも知られるように,寺で学ぶことが多く,この形態は室町時代には一般化した。毛利氏の家臣玉木吉保は,13歳のときから安芸の勝楽寺で3年間学んだが,その内容は,第1年目は,いろは・仮名文・漢字の手習い,《庭訓往来》などの往来物や《貞永式目》《童子教》《実語教》などの読書,第2年目は,漢字の手習い,《論語》《和漢朗詠集》などの読書,第3年目は,草行真の手習い,《万葉集》《古今和歌集》《源氏物語》などの読書,和歌・連歌の作法などを学び修了している。ここでは,算術は学ばれていないが,尼子氏の家臣多胡辰敬の家訓には,第1に手習い・学問,第2に弓術,第3に算用の勉学の必要をあげており,これら地方武士においても計算能力が重視されるようになったことが知られる。…

【論】より

…論は言と侖(りん)よりなり,侖は理,すなわち筋道のことで,筋道を正して言うのが論の原義である。〈論〉を書名とする《論語》が名付けられた理由を,後漢の鄭玄(じようげん)は〈論は綸なり,輪なり,理なり,次なり,撰なり〉と説く。綸は世務を経綸すること,輪は円転無窮の意,理は万理を蘊令(つつ)むこと,次は論述に秩序あること,撰は群賢が定稿を編集する意,というのが鄭玄の解釈であるが,この解釈は文体としての〈論〉にそのまま適用できる。…

※「論語」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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