古市氏(読み)ふるいちうじ

改訂新版 世界大百科事典 「古市氏」の意味・わかりやすい解説

古市氏 (ふるいちうじ)

室町時代に活躍した大和の国人。代々興福寺大乗院方の衆徒であった。本貫地は現奈良市東南方の福島市(ふくしまのいち)で,室町時代中期の給分としては,福島市の下司職(げししき)を〈惣知行〉するほか,高田荘切田米,狭竹荘請口内60貫文,上生講田作主職,越前河口荘藤沢名半分を与えられていた(《三箇院家抄》)。福島市は鎌倉時代後期に奈良の南市に移され,以後福島市は古市と呼ばれた。古市氏の国人としての成長も鎌倉時代後期と考えられ,1325年(正中2)古市但馬公が史料に見える。南北朝時代から,大和の実権を握る興福寺では大乗院,一乗院両門跡(もんぜき)の対立が深まり,興福寺の衆徒,春日社の国民に組織された国人も両門跡に分属,その中から北大和の筒井氏(一乗院方衆徒),南大和の越智(おち)氏(一乗院方国民)が頭角をあらわした。この過程で古市氏もしだいに台頭し,応永(1394-1428)のころには胤賢(いんけん)が活躍した。ついで胤仙(いんせん)は大乗院方衆徒の〈根本〉と称されるにいたり,1443年(嘉吉3)には筒井氏をいったん没落させ,以後古市,筒井氏は鋭い対立をつづけた。胤仙は幕府から追放された大乗院門跡経覚(きようかく)と深く結んで経覚を古市に迎え,経覚の縁で茶湯などの芸能も古市で発達した。53年(享徳2)胤仙の没後,長男胤栄(いんえい)の時代はあまりふるわなかったが,75年(文明7)胤栄が引退して弟の澄胤(ちよういん)が家督となり,古市氏は最盛期を迎えた。

 時あたかも戦国争乱の展開期にあたるが,澄胤は越智氏の女婿となって盟約し,また畠山義就と深く結んで,畠山政長派の筒井氏を圧倒,一方筒井氏にかわって興福寺衆徒の棟梁となり,一時は大和の実権を越智氏と二分する勢いを示した。93年(明応2)には澄胤は山城国の守護代となり,南山城に進駐して山城国一揆を解体させた。澄胤はまた,一方では村田珠光(むらたじゆこう)の〈一ノ弟子〉といわれる茶湯の名手で,連歌謡曲尺八でも令名がある文化人でもあり,この点に古市氏など大和国人の特色の一つがある。しかし両畠山氏の抗争に細川氏がからまった大和の戦国争乱の過程で,領主制を拡大強化することはできず,澄胤は1508年(永正5)に敗死し,以後古市氏はふるわなかった。なお古市氏の家督は代々〈播磨〉を仮名(けみよう)として〈古市播磨律師〉などと呼ばれ,また一族も多く興福寺の小院に入って六方衆などになっている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の古市氏の言及

【風流】より

…また1416年(応永23),洛西桂(かつら)の石地蔵が奇瑞を示したおりには,都人が連日のように風流を仕立てて大挙して参詣(さんけい)したが,そのときのようすを記した《桂川地蔵記》には,〈上宮太子が逆臣守屋を討つところ〉〈頼政の鵼(ぬえ)退治〉〈鴻門(こうもん)の会〉など,古今東西の故事にちなむ趣向60余が列挙されている。《経覚私要鈔(きようがくしようしよう)》《大乗院寺社雑事記》などによれば,奈良では15世紀後半に古市氏など国人衆を中心に盆に大がかりな風流が行われており,そのころから囃子物のまわりに大勢の踊り衆が見られるようになった。以後,風流の芸態は祭礼などに引き出される作り物を中心とした山車や鉾(ほこ)など,〈作り物風流〉と,盆などに行われる踊りを主体とした〈風流踊〉に分化した。…

【大和国】より

…大和では永享大和合戦以降は戦国乱世に突入したといえる。北大和の筒井氏,古市氏,南大和の十市氏,越智氏が四強といわれ,衆徒・国民らが国衆(くにしゆう)として大小名化を競ったが,平和要望の郷村にその活動は制約され,いぜん社寺の領主的権威にすがって保身をはかったため,強力な戦国大名は出現しない。 当代,奥地の吉野郡の僻地化,伊勢北畠氏の勢力の及んだ宇陀郡,紀伊(河内)畠山氏が支配した宇智郡には,それぞれの人文に伊勢・紀伊色が強まり,大和の歴史的舞台は大和平野部に縮まった感もある。…

※「古市氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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