豊橋(読み)トヨハシ

デジタル大辞泉 「豊橋」の意味・読み・例文・類語

とよはし【豊橋】

愛知県渥美半島南東部の市。豊川下流南岸に位置する。もと松平氏の城下町東海道五十三次吉田宿二川宿として発展。旧称、吉田を明治2年(1869)改称。かつては製糸が、現在は食品などの工業が盛ん。人口37.7万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「豊橋」の意味・読み・例文・類語

とよはし【豊橋】

  1. 愛知県東南端の地名。豊川への渡河点の集落として起こり、中世には今橋、のち吉田と呼ばれ、江戸時代には東海道五十三次の宿場町(吉田・二川宿)、吉田藩の城下町として栄えた。明治二年(一八六九)現在名に改称。東三河地方の養蚕地を背景に製糸業が発展。第二次大戦までは軍都としても知られた。現在は東三河地方を商圏とする商工業都市。明治三九年(一九〇六)市制。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「豊橋」の意味・わかりやすい解説

豊橋(市)
とよはし

愛知県南東部、東三河地方の中心都市。1906年(明治39)市制施行。県下二番目の市制都市である。1932年(昭和7)下地(しもじ)町、牟呂(むろ)吉田村、高師(たかし)村、下川村、石巻(いしまき)村の一部を編入、1955年(昭和30)二川(ふたがわ)町と前芝(まえしば)、高豊(たかとよ)、老津(おいつ)、石巻の4村、杉山、双和(そうわ)の2村の一部を編入。1999年(平成11)中核市に移行。JR東海道本線飯田線(いいだせん)、東海道新幹線、名古屋鉄道本線、豊橋鉄道渥美(あつみ)線の結節点になっている。また、国道1号、23号、42号、151号、259号、362号が通じる。豊橋駅から東部の赤岩口、運動公園前まで路面電車が走る。豊川(とよがわ)下流南岸に位置し、河岸段丘、沖積地、干拓新田からなり、市街地は段丘上にある。

 古代は飽海(あくみ)、中世は今橋(いまはし)、吉田とよばれ、1869年(明治2)に豊橋と改名された。豊川に架かっている橋の意味で、橋は現在の吉田大橋の下流600メートルにあった。今橋城は1505年(永正2)牧野古白(まきのこはく)の築城で、その後、吉田城となり、1590年(天正18)には池田輝政(てるまさ)が入城、15万石にふさわしい城および城下町の改造がなされた。在城10年ののち輝政は姫路へ転封され、その後明治維新まで3万石から8万石の領主が続いた。城跡は現在豊橋公園となり、復原された鉄櫓(くろがねやぐら)がそびえている。また、公園内には野球場などのスポーツ施設と美術博物館がある。吉田宿と二川宿は東海道五十三次の宿場町で、吉田宿は城下町と港町を兼ねて繁栄したが、第二次世界大戦で戦災を受けて戦災復興都市となった。二川宿は当時の町並みを残し、旧本陣馬場家は「二川宿本陣宿帳」(県指定有形民俗文化財)を保存している。1991年(平成3)に二川本陣資料館が開館した。明治維新後は軍都となり、城跡には歩兵、工兵連隊が置かれた。その後、高師村には第十五師団司令部が置かれ、高師原は演習場として使われた。師団司令部は第二次世界大戦後に愛知大学となり、高師原演習地は農業開拓地となった。産業は、戦前は製糸の町で全国一の玉糸の産地であったが、現在は臨海工業地帯に近代的大工場群が立地し、豊橋港を中心とした三河港も重要港湾の指定を受け、貿易港として機能している。沖積地はハクサイつまもの野菜、キャベツなどの野菜や花卉(かき)の一大産地で、養豚、養鶏のほか、ウズラの飼養などが盛ん。水産業はウナギ、ノリの養殖地帯として全国的に有名。地場産業として、筆づくり、ちくわ、ゼリーなどの食品加工がある。文化財も多く、国指定の重要文化財に東観音寺(とうかんのんじ)の多宝塔、普門(ふもん)寺の釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)、阿弥陀(あみだ)如来坐像、四天王立像があり、国の史跡に瓜郷(うりごう)遺跡、嵩山蛇穴(すせじゃあな)、国の天然記念物に石巻山石灰岩地植物群落がある。旧石器時代の人骨ではないかとして一躍注目を浴びた牛川人の発見地は牛川町の石灰岩採石場である。面積261.86平方キロメートル、人口37万1920(2020)。

[伊藤郷平]

『『豊橋市史』全8巻(1972~1987・豊橋市)』


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改訂新版 世界大百科事典 「豊橋」の意味・わかりやすい解説

豊橋[市] (とよはし)

愛知県南東部の市。1906年市制。人口37万6665(2010)。渥美半島の付け根に位置する。豊橋平野の南半分を占め,北部に豊川,中部に梅田川が西流して三河湾に注ぐ。市街地南部には文教・住宅地区としての高師(たかし)原,さらにその南には天伯(てんぱくはら)原の洪積台地が広がり,数十mの海食崖によって遠州灘に面している。牛川人として知られる化石人骨を出土した牛川洞窟遺跡,縄文時代の嵩山蛇穴(すせじやあな)(史),弥生時代の瓜郷遺跡(史),古墳としては権現山古墳などがある。中心市街地は豊川左岸にあり,鎌倉時代は渡津集落としてにぎわった。1505年(永正2)城下町今橋が誕生したが,その後今橋は吉田と改称,近世を通じ吉田藩の城下町,東海道の宿駅として栄えた。1869年(明治2)吉田は豊橋と改められ,88年の東海道本線豊橋駅開設を機に近代都市化の第一歩を踏み出した。昭和初期まで東三河の養蚕を背景に製糸都市として名をはせ,玉糸は全国一の生産額を誇った。一方,吉田城跡,高師原,天伯原が軍用地として利用されたことから軍都としても発展した。第2次世界大戦後は,軍用地跡に各種工場が誘致され,また三河湾臨海工業地域の造成も進み工業都市としての色彩が強まった。1968年の豊川用水の通水に伴う畑地灌漑によって野菜生産が盛んとなり,また大規模養鶏,ウズラ飼育に加えて,臨海部ではウナギの養殖も行われている。JR東海道本線,東海道新幹線,飯田線,名鉄名古屋本線,豊橋鉄道などが集中し,東三河から西遠,南信に及ぶ広域商圏の中心都市になっている。
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百科事典マイペディア 「豊橋」の意味・わかりやすい解説

豊橋[市]【とよはし】

愛知県南東部,西は三河湾,南は遠州灘に面し豊橋平野を占める市。1906年市制。中心市街は中世に今橋と呼ばれ,のち吉田と改め,明治初年豊橋に改称。中世以来の城下町で,特に16世紀末池田輝政15万石の城下となり町が整備され,東海道吉田宿としても栄えた。明治以後,紡織工業都市,軍都として発展。第2次大戦で戦災にあったが,戦後の復興は著しく,1972年豊橋港が国際貿易港として開港以来,港を中心に臨海工業地域が形成されて大きく発展した。輸送用機器,電気機器,プラスチック工業などが盛んで,1兆円以上(2003)の製造品出荷額を上げる工業都市となり,東三河地区の中核をなしている。また温暖な気候と水利に恵まれ,野菜栽培が盛んで,全国有数の農業粗生産額を上げている。東海道本線・新幹線,飯田線,名鉄名古屋本線,豊橋鉄道が通じる。261.86km2。37万6665人(2010)。
→関連項目豊橋技術科学大学

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世界大百科事典(旧版)内の豊橋の言及

【二川】より

…1843年(天保14)の家数は328軒で,そのうち本陣・脇本陣が1軒ずつ,旅籠屋が38軒あった。1955年豊橋市に合体。【渡辺 和敏】。…

【吉田】より

…戸数は年によって変動するが約1000軒前後,人口は1712年(正徳2)に7219人とある。1869年(明治2)版籍奉還の際,豊橋と改称したのは豊川にかかる橋の名によるといわれる。吉田藩【吉永 昭】。…

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