吉田熊次(読み)よしだくまじ

改訂新版 世界大百科事典 「吉田熊次」の意味・わかりやすい解説

吉田熊次 (よしだくまじ)
生没年:1874-1964(明治7-昭和39)

教育学者。山形県生れ。1900年東京帝国大学哲学科卒業,翌年最初の国定修身教科書編集に参加する。04年東京女子高等師範学校および東京高等師範学校教授,同年から07年までドイツフランス留学,16年に東京帝国大学文学部教育学科教授,34年の退官まで教育学者の養成にあたる。17年に臨時教育会議幹事,24年に文政審議会幹事,34年には思想問題対策のために設立された国民精神文化研究所の研究部長となる。明治後期に支配的であったヘルバルト学派の個人主義的な教育学に対して社会的人物の育成を目的とする社会的教育学提唱,さらにドイツのE.モイマン(1862-1915)の実験教育学を紹介して日本における実証的教育研究の端緒を開いた。しかし彼の教育学は,国民の生活規範である国民道徳の徹底を主張するなど終始体制擁護の立場から理論化されたものであった。おもな著書に,《社会的教育学講義》(1907),《系統的教育学》(1909),《現今教育思潮批判》(1945)などがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田熊次」の意味・わかりやすい解説

吉田熊次
よしだくまじ
(1874―1964)

教育学者。明治7年2月27日山形県に生まれる。1900年(明治33)東京帝国大学文科大学を卒業。哲学館(後の東洋大学)、東京高等師範学校教授などを経て東京帝大文科大学助教授、教授(1916)。個人主義的教育を批判して社会的教育学を唱え、幅広い理論活動により日本の講壇教育学の発展を支えた。1901年以後小学校修身書の編集にかかわる。臨時教育会議、文政審議会幹事など文部省各種委員を務めた。昭和39年7月15日没。

[尾崎ムゲン]

『吉田熊次著『社会的教育学講義』(1982・有明書房)』『『吉田熊次著作集』(2007・学術出版会、日本図書センター)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉田熊次」の意味・わかりやすい解説

吉田熊次
よしだくまじ

[生]1874. 山形
[没]1964. 東京
教育学者。 1900年東京帝国大学文科大学哲学科卒業。大学院倫理学,教育学を研鑽。 04年女子高等師範学校兼東京師範学校教授となり,ドイツ,フランスに留学。帰国後,東京大学助教授を兼任,16年東京大学教授となり,教育学講座を担当,多くの教育学者を育てた。修身教科書の編集に中心的役割を果したほか臨時教育会議,文政審議会幹事,国民精神文化研究所所員,大学退官後は名誉教授,国民精神文化研究所研究部長として活躍。著書『教育的倫理学』 (1910) ,『現今教育思潮批判』 (15) ,『教育学説と我が国民精神』 (34) など多数。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉田熊次」の解説

吉田熊次 よしだ-くまじ

1874-1964 明治-昭和時代の教育学者。
明治7年2月27日生まれ。東京女高師・東京高師教授をへて,大正5年東京帝大教授。社会的教育学をとなえ,ドイツ実験教育学を紹介して実証的教育学への道をひらいた。昭和39年7月15日死去。90歳。山形県出身。東京帝大卒。著作に「系統的教育学」「社会的教育学講義」など。

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