教育に関する重要事項について,内閣総理大臣の諮問に応じて答申および建議することを目的として,寺内正毅内閣の文相岡田良平により1917年9月に設置された総理大臣直属の機関。19年5月まで存続し,この間30回の総会が開かれた。総裁平田東助,副総裁久保田譲のほか,軍部も含め各界有力者で構成され,それだけに影響力も大きかった。諮問第1号〈小学教育改善ニ関スル件〉から第9号〈学位制度ニ関スル件〉まで,教育制度全般にわたり諮問がなされた。これらに対する答申のほか二つの建議がなされたが,審議会は,ロシア革命と大正デモクラシーという状況をにらみ,忠良なる臣民の育成のいっそうの重視をもって答えたといえる。18年の市町村義務教育費国庫負担法,高等学校令,大学令の制定や国定教科書大修正の実施,翌19年の中学校令や帝国大学令の改正など,答申にそった施策は多い。
執筆者:浦野 東洋一
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1917年(大正6)9月21日に設置された内閣直属の教育に関する重要事項の調査審議機関。第一次世界大戦下における欧米諸国の教育競争を直接の契機とし、大戦後における日本の国際的地位の向上と、国内外における社会・思想問題に対して、国体の精華の宣揚を期するために設置された。寺内正毅(まさたけ)首相のもと、総裁平田東助(とうすけ)、副総裁久保田譲と、36名の委員、4名の幹事からなる。この種の教育会議として初めて文部大臣の監督下を離れ、委員には関係各省庁の官僚のみならず、枢密院、貴族院などの実力者を選び、学制改革断行の態勢を整えた。会議に対する諮詢(しじゅん)は、小学教育、高等普通教育、大学教育および専門教育、師範教育、視学制度、女子教育、実業教育、通俗教育、学位制度の9項目であった。これらに関する答申を終えて19年5月23日廃止され、実行についての細案を議するために臨時教育委員会が設置された。19年以降実施された教育制度の全般的改善は、すべて臨時教育会議の答申に基づいている。なお、教育方針の審議機関としては、のちに教育評議会(1921)、文政審議会(1924)が設置されている。
[大槻宏樹]
『海後宗臣著『臨時教育会議の研究』(1960・東京大学出版会)』
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[〈家〉制度の矛盾と動揺]
しかし,日本資本主義の急激な発展に伴う社会的矛盾の激化(農家の窮乏と農村人口の都市流出,都市人口の増大と小家族化の進行,その中心をなす労働者家族の窮乏など)によって,〈家〉制度は大きな変容をうけることになる。すなわち,第1次世界大戦後の支配体制の動揺期に,臨時教育会議が〈淳風美俗〉による家族制度の改正,教化を主張したことは,なお〈家〉制度が統治体制にとってきわめて重要な意義を持っていたことを示すが,資本主義化による社会変動の実態は民法の中に〈家〉制度の強化規定をおくことを許さなかった。臨時教育会議の主張をうけた臨時法制審議会の親族・相続編改正要綱(1925,27)は,むしろ,小家族の家族秩序を反映して〈家〉制度的統制を緩和する方向を示すものとなった。…
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[家庭裁判所論議の歴史]
家庭内紛争の解決には特別の制度(家事審判制度)創設を必要とするという主張は,すでに大正期の臨時法制審議会の政府に対する意見(1922)にみられる。審議会におけるこの問題の審議は,臨時教育会議が明治民法の規定には日本の淳風美俗に反するものがあるとして,その改正を政府に求めた〈教育の効果を全からしむべき一般施設に関する建議〉(1919)に発している。その審議によれば淳風美俗として誇るべき家族制度をいちばんに破壊しているのは,家庭に事件がおこった場合,裁判所に行って冷たい権利の争いとするより道がないことであり,淳風美俗を維持するには権利義務の問題として裁判することを避け,調停により円満解決せしめるべきであるとして家事審判所の創設が主張された。…
…以上のほかに民法旧規定が〈家〉の維持に深く配慮していたことは,法定推定家督相続人は家督相続を放棄できないこと,系譜,祭具,墳墓の所有権を家督相続の特権に属させたことなどにも現れている。 その後の体制の危機に際し,淳風美俗(じゆんぷうびぞく)の立場から家督相続の強化が臨時教育会議(1923),臨時法制審議会などでもくろまれたが,かえって配偶者相続権,嫡出女子の庶男子優先など,長男子単独相続の後退(1927年の相続法改正要綱)が示された。しかし,実施には至らなかった。…
…狭義には教育課程の組織化に限定される場合もあるが,一般的には何らかの社会経済的危機や重大問題が生起したときに,長期的な展望をもつ人材養成計画として策定されるのがふつうである。 日本の場合,第2次大戦前には日露戦争後の社会不安増大に対応して推進された地方改良運動や通俗教育調査委員会の設置がみられ,第1次大戦後は社会主義国誕生の影響とデモクラシー思想の高揚に対応する形で組織された臨時教育会議,昭和恐慌期の農村疲弊のひろがりのもとで組織された農村更生運動など,国民教化的な意味での教育計画であったといえよう。戦後,新教育に移行して1940年代末ころまでは,教育改革理念の定着をめざし,地域の実情と住民の要求にそう地域教育計画のこころみが行われ,埼玉県の〈川口プラン〉,広島県の〈本郷プラン〉などは,自治体や住民と教育研究者の協力のもとですすめられてひろく知られた例である。…
… 大正期には,普選運動の高まりのほかに,労働争議,小作争議の激化のもと,全国的に労働学校や農民学校が生まれる一方,長野県上田地方の農村青年が新進気鋭の評論家や大学教師などを招いて開催した自由大学が各地にひろがる動きがみられ,また官僚の指導や干渉を排して青年による自治を掲げた〈青年団自主化運動〉も展開された。しかし,こうした民衆による本格的な社会教育活動の芽生えに対しては,治安維持法を頂点とする弾圧とともに,協調会による労務者講習会,内務省指導下の青年団天幕講習会,文部省による成人教育講座など民衆をとらえようとする新しいこころみが,臨時教育会議設置(1917)にみられる国民教化事業の全体的な強化のもとでなされていったのである。 昭和に入り,農村恐慌下で展開された自力更生運動は,内務省が明治以降一貫して民衆思想統制の中軸としてきた報徳思想のいっそうの浸透と戦争協力態勢づくりという実質をもって,青年会,婦人会などを動員し学校を包みこんで村ぐるみですすめられる一大教化運動であった。…
…わが国は家族制度を基礎として一大家族を成し,皇室は我等の宗家である〉と忠孝一致の家族国家観を強調した。この家族国家観が淳風美俗の中核をなすものであるが,大正年代,平沼騏一郎(当時,検事総長)は臨時教育会議(1917‐19)において,国民の思想統一を意図した建議案の説明の中で,淳風美俗として,〈上下の秩序を保ち,忠孝を重んじ,貴賤貧富の関係は情と親しみを基本とし,一国は一家の如くすること〉と説いている。臨時教育会議は寺内正毅内閣が設置したもので,その議事録にはロシア革命の成功,日本国内の労働争議,小作争議の激増,米騒動等,激しい社会の動きに対する支配層の危機感がありありとみられる。…
…1907年に設置された法律取調委員会はこれにより廃止された。 この審議会設置の直接の理由は,19年1月17日の臨時教育会議の建議の中に,〈我国固有ノ淳風美俗ヲ維持シ法律制度ノ之ニ副ハサルモノヲ改正スルコト〉とあったことによる。その役割は,原敬がその発足にあたり,臨時法制審議会の総裁穂積陳重,副総裁平沼騏一郎に対し,〈維新已来我先輩の尽力にて何事も政府は一歩先に進み改良をなし来れり,故に余も此趣旨を取るべし,人民より迫られて始て処置を取る様にては国家の為めに憂ふべき事なり〉(《原敬日記》1919年7月10日)と訓示したように,第1次大戦後の社会秩序の動揺に先手を打って対処するために,法体制を再編成することであった。…
…小学校歴史科では1904年から国定教科書が使用されており,10年の改訂版にあった南朝・北朝両立という記述に対し,翌11年,万世一系に反するとの非難が起こり,元老山県有朋らの指示により,南朝(吉野朝)を正統とするよう書き改められたという事件であり,以後,人物についても楠木正成・正行父子が忠臣孝子の代表とされるようになった。さらに17‐18年の臨時教育会議では忠良な帝国臣民の育成にとっての小学校歴史教育の重要性が確認され,26年より教科名も〈国史〉と改称された。以後,教科書改訂のたびに皇国史観の色彩が強められ,日本は神国であるとの記述が増え,たとえば元寇のさいに吹いた大風は34年改訂以降,〈神風〉と記されるようになった。…
※「臨時教育会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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