千葉県北部にある市。下総(しもうさ)台地上に位置し、千葉市の北に接する。1955年(昭和30)千代田町と旭(あさひ)村が合併して四街道町となり、1981年(昭和56)市制施行。地名は、船橋、佐倉(さくら)、東金(とうがね)、千葉方面への街道が交差することに由来する。JR総武(そうぶ)本線と国道51号が通じ、東関東自動車道四街道インターチェンジがある。中世、千葉氏の領地となり、江戸時代は佐倉藩堀田(ほった)氏の所領になった。北部台地の下志津原(しもしづはら)では、1875年(明治8)から陸軍の演習が行われた。1886年には陸軍砲兵射的学校が設置され、翌年総武本線が開通すると駅の北側に移転、1899年には陸軍砲兵第一八連隊が置かれ、下志津原は軍都として発展した。第二次世界大戦後、軍用地は開拓農家の入植地となったり、千葉師範学校女子部(現、千葉大学教育学部、在千葉市)が誘致されたりした。台地上での野菜、ラッカセイ、サツマイモ、イチゴの栽培のほか、米、クリ、ナシなどを産し、酪農も行われる。1965年総武本線千葉―佐倉間が複線化され、そのころから県住宅供給公社の千代田(ちよだ)団地をはじめ、旭ヶ丘グリーンタウン、みそら団地などの大型住宅地が開発され、1982年物井(ものい)に工業団地も完成した。快速電車が停車するようになり、駅前再開発が進み、人口は増加している。和良比(わらび)の皇産霊神社(みむすびじんじゃ)のはだか祭(毎年2月25日)は豊作祈願や幼児の厄除(やくよ)けを願って泥をかけ合う奇祭である。面積34.52平方キロメートル、人口9万3576(2020)。
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『『四街道町史』全4巻(1975~1981・四街道町)』
千葉県中北部の市。1955年千代田町と旭村が合体して四街道町となり,81年市制。人口8万6726(2010)。千葉市と佐倉市の間に位置する。市名は市街地西部の佐倉街道と成田街道との交差点を,四街道と呼んだことに由来する。市域は下総(両総)台地の一部である下志津原に広がり,かつては六方野(ろつぽうの)と呼ばれる原野で,近世には佐倉藩主らの鷹狩の場所であった。ここに幕末になって佐倉藩の砲術練習場,1874年には陸軍練兵場,86年陸軍砲兵射的学校(のちの砲兵射撃学校)が置かれ,軍都として発展した。これに先立って1884年に総武鉄道(現,総武本線)四街道駅が開設され,しだいに市街地が形成されていった。その後,下志津原は演習地として重要性を増し,大正期には下志津飛行学校,野戦砲兵学校が設置された。第2次大戦後,旧陸軍施設の跡地は国立療養所(現,国立病院機構)の下志津病院や学校,住宅などに転用され,下志津原の演習場跡は開拓地として開放された。昭和40年代前半から住宅団地の造成が進み,82年には物井駅付近に工業団地が進出して,人口は1965年からの30年間に3.3倍に膨張した。農地ではラッカセイ,梨の栽培のほか酪農が行われるが,住宅や工場の進出につれて耕地面積,農家数とも減少傾向にある。東関東自動車道が通じる。
執筆者:大沢 正敏
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