国吉城跡(読み)くによしじようあと

日本歴史地名大系 「国吉城跡」の解説

国吉城跡
くによしじようあと

[現在地名]美浜町佐柿

佐柿さがきの東部、標高一九七メートルの山頂から北西に連なる尾根にあった中世末から近世初めの山城。東西の眺望がきいて新庄しんじよう村を除く山東やまひがし山西やまにし両郷の村々が見渡せ、越前国境に近いので越前からの侵攻を防ぐ最適地である。また尾根の東西が急峻な天然の要害で、北は低い尾根で天王てんのう山と連なり、その低い部分に丹後街道の椿つばき峠がある。「三方郡誌」は天文―弘治年間(一五三二―五八)若狭守護武田氏の家臣粟屋越中守勝久が築き国吉城と名付けたとするが、「若狭国志」は「称国吉城、往昔某姓国吉者所築、勝久再興、故称旧名」と記し、旧城を勝久が修理再興したものと思われる。


国吉城跡
くによしじようあと

[現在地名]川上町七地

七地ななち南方領家りようけ(上流は大竹川)三沢みさわ川が合流する地頭じとうの谷底盆地を眺望する標高四一九・六メートルの高所にある。別名手の庄てのしよう城・手之ての城。城郭は総延長一六〇メートルの南北に連続する四郭と、郭の西側から南側に延びる脇郭(通称馬場)で構成される。郭面の比高約一二メートル内に一の壇から四の壇が単調に配置されるのに対し、脇郭は郭面から一五―三〇メートルの距離を隔て比高二〇メートル内に、城郭西側を郭面に並行して直線的に走り南側に至る大規模な構造で、攻撃・防御上ともに優れた配置となっている。


国吉城跡
くによしじようあと

[現在地名]土居町入野

入野いりのの集落より四、五町南、入野村と浦山うらやま村の境にあった城。天保一三年(一八四二)の「西条誌」によると「上の平東西八十間、南北五十間」の城跡であったが城主など詳細は不明。村内に国吉の下屋敷しもやしき跡と伝えられる所があり、その堀跡といわれる堀の内ほりのうちの地名も残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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