日本歴史地名大系 「入野村」の解説
入野村
にゆうのむら
観応二年(一三五一)四月九日の将軍家御教書(平賀家文書)によると、武石胤泰の田畠屋敷が安芸国入野郷内
至徳二年(一三八五)一〇月一四日、将軍家御教書(東寺百合文書)が松田備前守と宮下野守にそれぞれ発せられ、以前京都東寺へ施行した入野郷国衙分について、命を奉ずべき立場の小早川春平が東寺雑掌を追出しているので、近日中に両人で下地を雑掌に付するように命じている。
入野村
いりのむら
現綾町の南東端に位置し、北寄りを
永享五年(一四三三)七月八日、樺山次郎三郎(孝久)に島津庄日向方諸県庄のうち「入名并宮原村」が料所として島津忠国から宛行われた(「島津忠国宛行状」樺山文書)。
入野村
いのむら
- 神奈川県:平塚市
- 入野村
東を
永禄二年(一五五九)二月四日の北条氏尭寺領寄進状写(県史三)によれば「中郡入野之郷正林寺」とみえ、前々からの寺領二貫目のほか新たに大藤手作分で正林寺門前にある麦田から二貫五〇〇文、正林寺開五〇〇文の計五貫目の田地が同寺に寄進されている。小田原衆所領役帳には左衛門佐「弐百壱貫八百七拾文 中郡入野郷棟別反銭懸銭共ニ」とある。
天正一八年(一五九〇)青山領、寛永一〇年(一六三三)幕府直轄領、元禄一〇年(一六九七)旗本佐野・堀領の二給。
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
- 兵庫県:龍野市
- 入野村
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
- 兵庫県:相生市
- 入野村
入野村
いりのむら
入野村
にゆうのむら
入野村
いりのむら
- 山口県:岩国市
- 入野村
同書による村高は三六〇石余、うち田高二九六石余、畠高三八石余、楮高二五石余。その後少々減少して、元禄以降、幕末まで高三五七石余であった。なお享保一一年(一七二六)には村高三五七石三斗、戸数四六軒、人口二二六人、牛一七頭、馬四頭という状態で(享保増補村記)、山間の村で交通は不便ではあったが、田畑が多く山もあり、薪炭や紙業もあって、比較的ゆとりのある村であった。
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
入野村
いりのむら
- 兵庫県:三木市
- 入野村
入野村
いりのむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報