日本歴史地名大系 「国府・府中・城府・駿府」の解説
国府・府中・城府・駿府
こくふ・ふちゆう・じようふ・すんぷ
〔国府〕
中世に国府と記された史料は必ずしも多くない。「源平盛衰記」巻二三によると、治承四年(一一八〇)一〇月一〇日に平家の源頼朝追討軍が「駿河の国府」に着いている。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一二月二四日条には、上洛の帰途の頼朝が国府に着いたことが記される。建武二年(一三三五)八月一四日、足利尊氏が建武政権に反した北条時行を討伐するために下向、「駿河国府合戦」を行った(「足利尊氏関東下向宿次・合戦注文」国会図書館所蔵文書)。康永二年(一三四三)八月一八日の実祐・平盛平連署奉書写(「諸家文書纂」所収興津文書)によると「駿河国苻」の長者某が所領公事を免除されている。永享四年(一四三二)の将軍足利義教の富士歴覧に際しての飛鳥井雅世の著した「富士紀行」や中原師郷の日記「師郷記」にも国府とみえ、文亀―大永年間(一五〇一―二八)に連歌師宗長が著した「宗祇終焉記」や「宇津山記」「東路の津登」「宗長日記」、天文―永禄年間(一五三二―七〇)の歌人相玉長伝の私家集「心珠詠草」などにも国府と記載されている。永禄元年に京都より鎌倉までの宿次が書写された「実暁記」には、
〔府中〕
南北朝時代から使われた駿府の別称。駿河国府に由来する。苻中・府・苻・符と記され、府内と書く場合もある。観応元年(一三五〇)一二月日の伊達景宗軍忠状(駿河伊達文書)に「苻中」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報