国昌寺(読み)こくしようじ

日本歴史地名大系 「国昌寺」の解説

国昌寺
こくしようじ

現滋賀県大津市石山いしやまに所在した古代寺院で、最澄が住したことでも著名。平安時代の初めには焼亡した国分寺の寺格を継承して近江国分寺となっている。国昌寺の初見は僧法進が著した「沙弥十戒威儀経疏」五巻の跋語で、「天平宝字五年十月十五日、随駕住保良宮、住国昌寺」とある。保良ほら宮は天平宝字五年(七六一)一〇月孝謙上皇淳仁天皇が移り、翌六年五月に道鏡をめぐる上皇と天皇の不和により廃都になるまでの約八ヵ月間、実質的な宮都として百官の住するところとなるが、当時鑑真高弟で律師の法進も保良宮に移り、京内にあった国昌寺に住することになったのであろう。国昌寺が天平宝字五年以前からこの地に存在したことは間違いないが、その創建がいつ誰によってなされたのかについては二つ手掛りがある。

〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔創建の経緯〕

その一つは国昌寺僧として唯一知られる最澄をめぐる問題である。「伝教大師行業記」に一五歳の時(宝亀一〇年)国昌寺僧になったことがみえるが、より確実には延暦二四年(八〇五)九月二八日の賜向唐求法最澄伝法公験(顕戒論)に「国昌寺僧最澄」とあって、宝亀八年(七七七)近江国分寺に入り、延暦四年国分寺を離れ、比叡山中に隠遁したとされており、その頃より国昌寺に僧籍を置いていた可能性が高く、国昌寺と最澄のつながりは意外に深いとみられる。


国昌寺
こくしようじ

[現在地名]浦和市大崎

見沼代用水(東縁)の東岸、見沼低地を見下ろす台地上に位置する。曹洞宗で、大崎山と号し、本尊釈迦如来。もと染谷そめや(現大宮市)常泉じようせん寺の末寺開山は同寺八世の心巌宗智。開基大崎おおさき村諏訪社神主の先祖高橋図書という。草創は天正年間(一五七三―九二)と伝えるが、心巌宗智が天正一一年に没しているので同年以前のことと思われる。慶安二年(一六四九)八月、将軍徳川家光から「足立郡大崎村之内」において朱印地一〇石が下付された(「徳川家光朱印状」寺蔵)。寺宝の一つに当寺二世大雲文龍の筆による「大弁才尊天号」の書がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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