1795年10月27日から99年11月7日まで存続したフランスの政府。ロベスピエール没落後の国民公会により準備された。95年8月「共和暦三年の憲法」が制定され、ブルジョア共和主義の眼目の下に、制限選挙により選ばれる五百人会(議案提出権をもつ衆議院)と元老院(議案採択権をもつ上院)の二院が構成され、行政府には5人の総裁が指名される。5人の総裁は大臣として、各自が独自の権能をもつとされた。この新憲法に基づき、最初の総裁にはバラス、カルノー、ルーベル、ルトゥルヌール、ラ・レベイエール・レポーが選ばれた。総裁政府は成立早々、左翼の山岳派・ジャコバン派と右翼王党派から挟撃された。おりしもインフレーションが最悪の状態を告げ、アッシニャ紙幣の暴落とともに、物価が暴騰した。一部の実業家や投機師や金融家の繁栄、驕奢(きょうしゃ)をよそに、多くの市民が苦窮を訴え、社会情勢が険悪化した。革命末期の統制こそ解除されたが、革命戦争はなお継続中とあって、物資が相対的に不足し、生活の危機が最初から政府の土台を揺さぶった。バブーフの平等主義的反乱の陰謀は未然に防がれたが、右翼の王党派が財界の支持を受けて、年ごとに勢威を強め、97年4月にはバルテルミーのような札付きの復古王政派を総裁に選出した。バルテルミーは97年9月4日のフリュクティドールの政変により逮捕されて失脚した。が、総裁政府の無策と無力感は依然回復されず、政権はいずれ超党的な覇者の手にゆだねられかねない宿命を暗示した。97年にオーストリア軍を屈服させ、独力でカンポ・フォルミオ条約を結んだ凱旋(がいせん)将軍ナポレオンは、まさにフランス国民の希望の星の観があった。その分、彼は総裁政府から警戒されて、翌98年エジプト遠征へと飛び立つ。しかも彼の不在中にヨーロッパ諸国がふたたび結集し、フランス軍は彼らの攻勢の前にドイツ、イタリア、スイス戦線で後退を余儀なくされた。国内では右翼の追放後、ジャコバン派が息を吹き返し、バラスのほかゴイエ、デュコス、ムーランら旧革命戦士が総裁政府の大臣に就任した。このときナポレオンがエジプトから突然帰国した(99年10月)。彼を迎えて、政局はにわかに緊張し、政界の老練シエイエスやタレーランはナポレオンを中心に新体制の樹立を構想する。ナポレオンは99年11月「ブリュメールのクーデター」を敢行し、議会から反対派を駆逐、総裁政府の命脈を絶ったのである。
[金澤 誠]
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執政政府とも訳される。フランス共和暦第3年憲法(95年憲法)により成立した共和政の政治体制。1795年10年27日から99年11月9日(ブリュメール18日)まで続いた。5人の総裁と元老会,五百人会の2院制議会を中心に革命後社会のブルジョワ的安定を目標にしたが,王党派とジャコバン派の間に均衡を保ちえず,特にフリュクティドール18日のクーデタ(97年9月4日)以後,軍部の発言権を増大させた。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…経済統制は直ちに廃止され,国民公会の左翼議員は追放され,ジャコバン・クラブは閉鎖され,復活した右翼によって報復的な〈白色テロル〉が荒れ狂った。95年8月に制定された新憲法では,普通選挙制も廃止されて,二院制の議会と5人の総裁から成る総裁政府が樹立された。しかし,この総裁政府は左右両翼からの脅威にさらされていた。…
…1799年11月9日,フランスでナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒して権力を掌握したクーデタをいう。その日が,当時行われていた共和暦では共和第8年ブリュメール18日に当たるので,この名がある。…
※「総裁政府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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