草部郷(読み)くさべごう

日本歴史地名大系 「草部郷」の解説

草部郷
くさべごう

古代くさべ(和名抄)を基として平安後期以降国衙領草部郷が成立した。郷名は室町期以降も存続するが草部庄とも混用され、日下部・日部とも記された。郷域は現在の堺市南西部の和田わだ(石津川支流)下流域一帯から現高石たかいし市東部の信太しのだ山麓の富木とのき取石とりいしに及ぶ範囲と推定され、鎌倉期以降郷内は上条かみじよう(草部・菱木)・中条(殿木)下条(取石)に三区分されていた。

建仁二年(一二〇二)四月一五日の摂政家政所下文案(田代文書)に郷名がみえ、それによると摂政家は和泉国在庁官人らに草部郷収納使長慶とその配下の尊恵・正方らの押妨を排して、友貞・重富・松近らに先例のごとく草部・大鳥両郷村々の刀禰職安堵するよう命じている。友貞・重富らは譜代相伝の職として少なくとも平安後期以降これを世襲していた。一方、彼らの大半は摂関家に大番役を奉仕する舎人でもあり、国衙と権門の両属関係の下にあった。重富は草部郷村刀禰を相伝する有力な大番舎人の一人であった。この収納使長慶の沙汰による刀禰職押取は、刀禰を媒介とした国衙領管理を直接支配に替えようとする動きがあったことを示している。また建永元年(一二〇六)九月日付和泉国大鳥社神人等解案(「徴古雑抄」大鳥郷文書)によると、同解に証判を加えた大鳥郷内の刀禰五名のなかに草部郷を本貫とする殿木(来)氏が高石村刀禰としてみえており、隣接する草部・大鳥両郷は人的にも領域的にも錯綜していたことがうかがわれる。

建永元年頃国衙宛に提出された年欠の大鳥郷浦預友貞言上状案(「徴古雑抄」大鳥郷文書)によると、かつて大鳥郷内の浄琳じようりん寺沙汰人を称する菅右衛門大夫が友貞知行の大鳥郷浦六町(大鳥社供菜浦、現高石市)を押妨しようとした際、収納使友貞の沙汰としてその押妨は国衙によって停止されたが、一方で友貞知行の大鳥・草部両郷境の「新古二帖」からなる「草部郷佃」(給主は大鳥郷預所宗平)が停廃され、佃は収納使長慶の沙汰に付された。ところが大鳥郷浦は草部郷を本貫とする院使友末代官の取石権守正方によって浄琳寺領と称して押領された。そこで友貞は、代代の国司庁宣による収納使の沙汰として浦預を勤めてきたことを主張し、取石正方の狼藉停止を要請、併せて先年長慶の沙汰に付された草部郷佃の安堵を求めたのである。


草部郷
くさかべごう

一三世紀前半より一五世紀半ばにかけての文献に散見する中世の行政単位で、郡・条に次ぎ、一定の境域をもつ。「和名抄」にみえる中島郡日部くさかべ郷の系譜をひくものか。初見は、長光ちようこう(現六角堂町)に文暦二年(一二三五)尾張俊光が願主として奉納した鋳鉄地蔵菩薩立像にみえる左の陽鋳銘である。

<資料は省略されています>

弘安五年(一二八二)の千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)では、草部郷内の条里制の里および村として、草部里(日下部村)・小槐里・毛受めんじよう里・鯉田里・小遠里・田宮たみや村をあげている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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