哲学者、評論家。新潟県佐渡の豪農に生まれる。本名は茂(つとむ)。日本画家麦僊(ばくせん)は兄にあたる。新潟師範学校を経て、東京高等師範学校に入学。ここで丘浅次郎、田中王堂の感化を受ける。在学中に『文明思潮と新哲学』(1914)を処女出版。京都帝国大学へ進み西田幾多郎(にしだきたろう)の指導を受けた。当時まだ目新しかったフッサールの現象学に注目、卒論は「現代哲学序論――認識の現象学的考察」。のちこれをまとめて『象徴の哲学』(1919)を出版した。1919年(大正8)日本文化学院を設立、翌1920年創刊した機関誌『文化』を舞台に在野の立場から思想、文化、社会の諸問題について文化主義を主張、とりわけ当時台頭してきたマルクス主義を批判した(『マルクス思想と現代思想』1921)。またこのころ「信濃(しなの)自由大学」をはじめとする自由大学運動を推進し、積極的にこれらの運動を支援した。晩年は病床にふすことが多く、国文学や日本美術史の研究に沈潜した。
[渡辺和靖 2016年9月16日]
『『土田杏村全集』全15巻(1935~1936・第一書房/復刻版・1982・日本図書センター)』▽『『象徴の哲学』(1971・新泉社)』
大正・昭和期の思想家,評論家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
哲学者,評論家。新潟県佐渡の生れ。本名茂(つとむ)。日本画家土田麦僊(ばくせん)の弟。東京高等師範学校博物学部を経て,京都帝大哲学科に学び,哲学者の田中王堂,西田幾多郎から強い影響をうけた。卒業後ひきつづき大学院に進学,在学中に雑誌《文化》を創刊し,社会,教育,文学,芸術などの多方面にわたる評論活動を展開した。その立場は自由主義的であったが,ヨーロッパの社会主義的文化運動である〈プロレットカルトproletcult論〉の紹介にもつとめた。
1921年には長野県上田を中心とする農村青年の自己形成運動である〈自由大学〉創設に協力し,学問の地方分権化,労働と教育との結合をめざした。29年河上肇とマルクス批判をめぐって論争を展開,晩年は国文学の哲学的研究に熱中し,また新短歌運動の先頭に立った。《土田杏村全集》全15巻(1935-36)がある。
執筆者:中野 光
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…1921年長野県上田市で発足した信濃自由大学(のち上田自由大学)が最初である。信濃自由大学は,官製の青年団にあきたらず,普選運動や自由画運動にかかわり学習要求に燃えていた青年たちが,哲学者土田杏村の協力を得て設立したものである。その目的は,学問の中央集権と政府の教育統制に反対して,学問の自由を獲得し,労働に従事している人々が生涯学べる自治的な大学を設立することであった。…
…そのことから定型を破壊して自由律によろうとする動きが,大正末期からあらわれた。石原純,土田杏村らがその主導者で,口語定型を守持するものらとの論争がしばしばおこなわれた。しかし1932‐33年(昭和7‐8)ころに口語歌運動では定型派のすべてが敗退し,自由律派のみとなった。…
※「土田杏村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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