1870年、石川県生まれ。東京帝国大を卒業後、旧制四高(金沢大の前身)や学習院の教授を経て、1910年に京都帝国大へ移り13年から教授となった。禅仏教を軸とした東洋的思想に西洋哲学を取り入れた思想が独創的と評され、後に「京都学派」と称される哲学者集団の礎を築いた。11年発表の「善の研究」で、主観客観や知情意を分けることなく事物をありのままに捉える「純粋経験」の概念を追究。28年の退官後、鎌倉などを拠点に思索を続け、太平洋戦争末期の45年6月に75歳で死去した。
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哲学者。石川県金沢市近傍の宇ノ気村(現、かほく市)に生まれる。号は寸心。明治維新後、欧米の学問、芸術が入り、新日本の文化万般がその様式において根本的な変革と前進を始めた時期、欧米の現代哲学を紹介するのみならず、その優れたものを自家薬籠(やくろう)中のものとし、これを日本精神史、わけても武家時代以後、日本民族の精神的、宗教的生活の中核をなしてきた仏教(別して禅)と儒教の精髄を統合して独自の哲学を創建した最初の代表的哲学者である。ときどき発表した論文を集めて1冊の著書としたのが『善の研究』(1911)である。これは明治維新以来の欧風化を進める近代日本にとって、最初の独創的な哲学書とみるのが通説のようである。
学制定まらず変革激しい明治初期であるが、初中校を経、のちに金沢の第四高等学校となる高等中学を経(目を病み中途退学する)、東京帝国大学文科大学哲学選科にて学ぶ。卒業後、金沢四高教授、学習院教授等を経、1910年(明治43)京都帝国大学文科大学助教授となる。哲学、倫理学、さらに宗教哲学も講ずる。1913年(大正2)文学博士。翌1914年より『自覚に於(お)ける直観と反省』なる論文を京大哲学科の機関誌『芸文』に、のちに新設の機関誌『哲学研究』に続いて発表、回を重ねること前後44回、5年にわたる。まもなく岩波書店より同名の標題の著書として出版される。『善の研究』と並び、この2書は大正年代の哲学青年・学徒に与えた影響すこぶる大であった。特別結論とか新学説とか銘打たれるようなものを産出した著述ではなく、とくに『自覚に於ける直観と反省』は、著者自身「此(この)書は余の思索に於ける悪戦苦闘のドッキュメントである。幾多の紆余(うよ)曲折の後、余は遂(つい)に何等の新しい思想も解決も得なかったと言はなければならない。刀折れ矢竭(つ)きて降を神秘の軍門に請ふたという譏(そしり)を免(まぬがれ)ないかも知れない」と序に述べている。
1940年(昭和15)文化勲章受章。
[高山岩男 2016年9月16日]
哲学を学ぶとは「哲学する」philosophierenことを学ぶことだとは、ほかならぬドイツ哲学の始祖といってよいカントのいったことばである。半世紀にわたって西欧の哲学界を魅了したいわゆるドイツ観念論の哲学者たちを輩出させた本当の根源を、筆者はこのカントの「哲学する」という哲学の魂に存すると考えてきている者であるが、日本の哲学学徒を魅了し、世間に「京都哲学」とか「京都学派」とかよばれるようになった根源は、西田幾多郎の「講義」の姿にあると信じている。京都大学教授の停年も近づく数年間は、大講堂があふれるというだけでなく、学生のほか、近県で教鞭(きょうべん)をとる卒業生をはじめ、他の学部の教授・助教授がそのなかに混じって聴講し、講壇上を和服姿で行きつ戻りつする西田の姿を追い、水を打ったように静かであった講義風景を、筆者はいまなお思い出すことができる。
このような西田哲学も――「西田哲学」という日本では珍しい呼び方をした最初の人は、東京商科大学(現、一橋(ひとつばし)大学)の教授だった左右田喜一郎(そうだきいちろう)である――停年が近づく大正末年の講義において大きな変換をし始め、「場所」という珍しい用語が飛び出し、やがて同名の論文が機関誌『哲学研究』に掲載された。場所ということばはなにも珍しくない日常語で、プラトンにも「イデアの場所」という概念があり、事実西田もこれを講義で援用したが、晩年の場所の哲学を理解するにも、またそれ以前の長い「悪戦苦闘のドッキュメント」時代の西田哲学を理解するにも、次の重大なことをここに記しておかなければならない。それは金沢時代からの西田の仏教、別して禅に対する深い関心と参禅修行のことで、これを抜きにしては西田哲学なるものを真には理解できないのである。
[高山岩男 2016年9月16日]
西田幾多郎と禅との関係はいつ始まるか直接に聞きただしたことはないが、前記の四高に入校したとき、同級に鈴木大拙(すずきだいせつ)がいた。この鈴木大拙が早く、そしてまた生涯禅と離れず、英文の『禅論文集』をもって世界に知られた人物であることは周知のとおりである。西田寸心がこの鈴木大拙と四高以来きわめて親密な間柄にあることは西田に接近している人の知るとおりで、禅の話を尋ねると大拙に聞けとか、京大時代のもっとも古い門弟久松真一に聞けとかいわれたものである。
西田がいかに禅に凝ったかは、残された若い時代の日記ですぐわかるが、年譜(『西田幾多郎全集』第19巻)を検しても、28歳のころ参禅の関心高まり、雲門、滴水(1822―1899)、広州、虎関(こかん)の4禅師を歴訪しており、京都妙心寺にての夏の大接心に7日間参加をはじめ、妙心寺での参禅は続いており、30歳ころからは金沢郊外臥龍山(がりょうざん)雲門老師に参じ続けたもののようである。「寸心居士」の号はこの雲門老師より受けている。いまこれ以上言及しないが、注意したい点は、この禅を離れて西田のきわめて独自な哲学は成立しなかったであろうし、逆に、西洋人で西洋哲学を学び、優秀な哲学者となった人が日本にきて参禅したとしても、西田哲学風の哲学に違和感は避けられず、自らこの種の立場を建設することはできないであろうということである。
西田哲学と禅との関係は、単に禅語を使用するという風の外面的のものでなく、禅体験と内面的に融合した思索が禅語と異なる哲学用語となり(たとえば絶対無の場所など)、その論理となるということである。
西田は京都大学に赴任する前、学習院に教授として教鞭をとった(1909)。ごく短い1年の期間であったが、この期間に近衛文麿(このえふみまろ)(公爵)をはじめ、貴族の子弟が西田に影響され帰依(きえ)したようである。西田が京大教授として京都に移るや、近衛は京都大学に入学(文学部ではない)、西田と会合する機会をつくって教えを受けていたもののようである。太平洋戦争の雲行き暗く、政界の暗幕下でひそかに動くなかから西田の名を聞くに及んで、筆者は、西田と直接間接、政界になにかの関係があったのでないかと思っている。
[高山岩男 2016年9月16日]
『『西田幾多郎全集』全19巻(1965~1966・岩波書店)』▽『『西田幾多郎遺墨集』1巻(1977・燈影舎)』▽『『西田幾多郎全集 新版』全24巻(2002~2009・岩波書店)』▽『荒井正雄著『西田哲学読解――ヘーゲル解釈と国家論』(2001・晃洋書房)』▽『竹村牧男著『西田幾多郎と仏教――禅と真宗の根底を究める』(2002・大東出版社)』▽『小林敏明著『西田幾多郎の憂鬱』(2003・岩波書店/岩波現代文庫)』
哲学者。近代日本の代表的哲学者として,その哲学はしばしば〈西田哲学〉と呼称される。石川県に生まれ,1894年東京大学哲学科選科を卒業,96年に金沢の第四高等学校講師,次いで教授となった。そのころから,物心両面の苦悩のうちに参禅の経験を重ねたが,やがて当代の日本に広い影響を与えていたT.H.グリーンの理想主義的人格主義倫理学やW.ジェームズの純粋経験の哲学にも学びつつ,主客未分の〈純粋経験〉の世界を実在の根本実相と観ずる立場に到達した。それを論述したのが《善の研究》(1911)であり,この書は,近代合理主義,理想主義と,現実の日本の非合理的情念,実利主義との間で近代的自我の確立に苦しんでいた当代の青年に,衝撃的な影響を与えた。やがて学習院教授を経て,1910年京都大学哲学科倫理学講座の助教授に着任し,13年教授となって,前任の桑木厳翼の東大転出とともに哲学講座の中心となった。京大哲学科はそのころから波多野精一,深田康算,朝永三十郎,やがては田辺元らを擁して,日本のアカデミー哲学の中心となり,三木清をはじめ多くの青年が西田や波多野を慕って京大に学ぶようになった。
西田は,やがて《自覚に於ける直観と反省》(1917)等の著作を通して,はじめの純粋経験の立場のもつ主観主義,主意主義にきびしい批判を重ね,ついに〈場所の論理〉に到達した。それは,実在の根底を弁証法的一般者とし,単に反省的思惟ではない行為的直観におけるその自己限定として世界をみる〈絶対矛盾的自己同一〉の論理であり,〈知〉と〈行〉の一致の極致としての絶対無の弁証法的論理であった。ここに近代西欧の理性主義的論理を超える東洋文化の哲学的根拠が与えられたとされ,〈西田哲学〉の呼称も,この立場を明確にした《働くものから見るものへ》(1927)が世に出されるころから行われた。西田は,《一般者の自覚的体系》(1930)や《無の自覚的限定》(1932),《哲学の根本問題》(1933)などでこの立場を練り上げたが,そのころからマルクス主義が日本の思想界に大きな影響をひろげるようになった。西田もそれと対質しつつ〈歴史的現実世界〉の問題と取り組み,〈場所〉を〈弁証法的世界〉として具体化し,〈絶対矛盾的自己同一的世界の自己限定〉として〈歴史的実在〉の世界をとらえる立場を展開した。
この間,西田は28年京大を定年退官し,書斎でみずから〈悪戦苦闘〉と称した思索の生活を送ったが,その哲学体系を物理的存在や生命世界,芸術,倫理,宗教の諸領域にわたって展開しつづけた。そして,西田哲学は,30年《西田先生の教を仰ぐ》を書いて批判を表明し,独自の立場へ進もうとした田辺元をはじめ,三木清,戸坂潤らの批判的対決,また西田哲学を継承しつつこれを歴史哲学の領域に適用し,太平洋戦争を世界史の道義的課題と説く〈世界史的立場〉の哲学を主張した高坂正顕,高山岩男,西谷啓治らいわゆる〈京都学派〉の哲学者たちなど,継承と批判をともども含む大きな影響をひろげた。
執筆者:荒川 幾男
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明治〜昭和期の哲学者 京都帝国大学名誉教授。
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(竹田篤司)
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1870.5.19~1945.6.7
明治~昭和前期の哲学者。号は寸心。石川県出身。東大卒。帰郷して教職につき,1899年(明治32)四高教授。1907年「哲学雑誌」に「実在に就いて」を掲載して学界に知られた。09年学習院教授,翌年京都帝国大学助教授。11年に「善の研究」を刊行。13年(大正2)同大教授となる。大学ではブッセ,ケーベルらに学んだが,グリーンの自我実現説に関心を抱き,金沢時代の10年間は参禅によって思索を深めた。中央を離れての生活が「善の研究」の中核をなす純粋経験へと結晶し,以後はもっぱらその論理的純化に努めた。西田哲学とよばれるその思想体系は東洋的といわれるが,意図的ではない点から独創的とされる。学士院会員。40年(昭和15)文化勲章受章。「西田幾多郎全集」全24巻。
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…西洋での代表者は一者(ト・ヘンto hen)からの多様な現象の流出を説くプロティノス,〈産む自然〉としての一なる神を実体,多様な〈産まれた自然〉をその様態と説くスピノザなどである。西田幾多郎の《善の研究》(1911)は,純粋経験の程度・量的差異による世界と人生の一元論的説明の試みと言いうる。一元論は日本では《哲学字彙》(1881)以来,訳語として定着した。…
…湖岸の大崎では小規模ながら漁業が行われる。哲学者西田幾多郎の生誕地で,西田記念館がある。ほかに縄文中期の上山田貝塚がある。…
※「西田幾多郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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