西田幾多郎(読み)にしだきたろう

精選版 日本国語大辞典 「西田幾多郎」の意味・読み・例文・類語

にしだ‐きたろう【西田幾多郎】

哲学者。石川県出身。東京帝国大学卒。日常経験としての純粋経験と坐禅の体験とを融合して、主観・客観が分離する以前の原初的な純粋経験という独自の立場を創造し、その主体を人格とした。晩年、日本的な「無」の哲学を主張。京都帝大教授。文化勲章受章。著「善の研究」「自覚における直観と反省」「無の自覚的限定」など。明治三~昭和二〇年(一八七〇‐一九四五

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デジタル大辞泉 「西田幾多郎」の意味・読み・例文・類語

にしだ‐きたろう〔‐キタラウ〕【西田幾多郎】

[1870~1945]哲学者。石川の生まれ。京大教授。東洋思想の絶対無を根底に置き、それを理論化して西洋哲学と融合する西田哲学を樹立した。文化勲章受章。著「善の研究」「芸術と道徳」「哲学の根本問題」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西田幾多郎」の意味・わかりやすい解説

西田幾多郎
にしだきたろう
(1870―1945)

哲学者。石川県金沢市近傍の宇ノ気村(現、かほく市)に生まれる。号は寸心。明治維新後、欧米の学問、芸術が入り、新日本の文化万般がその様式において根本的な変革と前進を始めた時期、欧米の現代哲学を紹介するのみならず、その優れたものを自家薬籠(やくろう)中のものとし、これを日本精神史、わけても武家時代以後、日本民族の精神的、宗教的生活の中核をなしてきた仏教(別して禅)と儒教の精髄を統合して独自の哲学を創建した最初の代表的哲学者である。ときどき発表した論文を集めて1冊の著書としたのが『善の研究』(1911)である。これは明治維新以来の欧風化を進める近代日本にとって、最初の独創的な哲学書とみるのが通説のようである。

 学制定まらず変革激しい明治初期であるが、初中校を経、のちに金沢の第四高等学校となる高等中学を経(目を病み中途退学する)、東京帝国大学文科大学哲学選科にて学ぶ。卒業後、金沢四高教授、学習院教授等を経、1910年(明治43)京都帝国大学文科大学助教授となる。哲学、倫理学、さらに宗教哲学も講ずる。1913年(大正2)文学博士。翌1914年より『自覚に於(お)ける直観と反省』なる論文を京大哲学科の機関誌『芸文』に、のちに新設の機関誌『哲学研究』に続いて発表、回を重ねること前後44回、5年にわたる。まもなく岩波書店より同名の標題の著書として出版される。『善の研究』と並び、この2書は大正年代の哲学青年・学徒に与えた影響すこぶる大であった。特別結論とか新学説とか銘打たれるようなものを産出した著述ではなく、とくに『自覚に於ける直観と反省』は、著者自身「此(この)書は余の思索に於ける悪戦苦闘のドッキュメントである。幾多の紆余(うよ)曲折の後、余は遂(つい)に何等の新しい思想も解決も得なかったと言はなければならない。刀折れ矢竭(つ)きて降を神秘の軍門に請ふたという譏(そしり)を免(まぬがれ)ないかも知れない」と序に述べている。

 1940年(昭和15)文化勲章受章。

高山岩男 2016年9月16日]

西田哲学の本質

哲学を学ぶとは「哲学する」philosophierenことを学ぶことだとは、ほかならぬドイツ哲学の始祖といってよいカントのいったことばである。半世紀にわたって西欧の哲学界を魅了したいわゆるドイツ観念論の哲学者たちを輩出させた本当の根源を、筆者はこのカントの「哲学する」という哲学の魂に存すると考えてきている者であるが、日本の哲学学徒を魅了し、世間に「京都哲学」とか「京都学派」とかよばれるようになった根源は、西田幾多郎の「講義」の姿にあると信じている。京都大学教授の停年も近づく数年間は、大講堂があふれるというだけでなく、学生のほか、近県で教鞭(きょうべん)をとる卒業生をはじめ、他の学部の教授・助教授がそのなかに混じって聴講し、講壇上を和服姿で行きつ戻りつする西田の姿を追い、水を打ったように静かであった講義風景を、筆者はいまなお思い出すことができる。

 このような西田哲学も――「西田哲学」という日本では珍しい呼び方をした最初の人は、東京商科大学(現、一橋(ひとつばし)大学)の教授だった左右田喜一郎(そうだきいちろう)である――停年が近づく大正末年の講義において大きな変換をし始め、「場所」という珍しい用語が飛び出し、やがて同名の論文が機関誌『哲学研究』に掲載された。場所ということばはなにも珍しくない日常語で、プラトンにも「イデアの場所」という概念があり、事実西田もこれを講義で援用したが、晩年の場所の哲学を理解するにも、またそれ以前の長い「悪戦苦闘のドッキュメント」時代の西田哲学を理解するにも、次の重大なことをここに記しておかなければならない。それは金沢時代からの西田の仏教、別して禅に対する深い関心と参禅修行のことで、これを抜きにしては西田哲学なるものを真には理解できないのである。

[高山岩男 2016年9月16日]

西田哲学と禅

西田幾多郎と禅との関係はいつ始まるか直接に聞きただしたことはないが、前記の四高に入校したとき、同級に鈴木大拙(すずきだいせつ)がいた。この鈴木大拙が早く、そしてまた生涯禅と離れず、英文の『禅論文集』をもって世界に知られた人物であることは周知のとおりである。西田寸心がこの鈴木大拙と四高以来きわめて親密な間柄にあることは西田に接近している人の知るとおりで、禅の話を尋ねると大拙に聞けとか、京大時代のもっとも古い門弟久松真一に聞けとかいわれたものである。

 西田がいかに禅に凝ったかは、残された若い時代の日記ですぐわかるが、年譜(『西田幾多郎全集』第19巻)を検しても、28歳のころ参禅の関心高まり、雲門、滴水(1822―1899)、広州、虎関(こかん)の4禅師を歴訪しており、京都妙心寺にての夏の大接心に7日間参加をはじめ、妙心寺での参禅は続いており、30歳ころからは金沢郊外臥龍山(がりょうざん)雲門老師に参じ続けたもののようである。「寸心居士」の号はこの雲門老師より受けている。いまこれ以上言及しないが、注意したい点は、この禅を離れて西田のきわめて独自な哲学は成立しなかったであろうし、逆に、西洋人で西洋哲学を学び、優秀な哲学者となった人が日本にきて参禅したとしても、西田哲学風の哲学に違和感は避けられず、自らこの種の立場を建設することはできないであろうということである。

 西田哲学と禅との関係は、単に禅語を使用するという風の外面的のものでなく、禅体験と内面的に融合した思索が禅語と異なる哲学用語となり(たとえば絶対無の場所など)、その論理となるということである。

 西田は京都大学に赴任する前、学習院に教授として教鞭をとった(1909)。ごく短い1年の期間であったが、この期間に近衛文麿(このえふみまろ)(公爵)をはじめ、貴族の子弟が西田に影響され帰依(きえ)したようである。西田が京大教授として京都に移るや、近衛は京都大学に入学(文学部ではない)、西田と会合する機会をつくって教えを受けていたもののようである。太平洋戦争雲行き暗く、政界の暗幕下でひそかに動くなかから西田の名を聞くに及んで、筆者は、西田と直接間接、政界になにかの関係があったのでないかと思っている。

[高山岩男 2016年9月16日]

『『西田幾多郎全集』全19巻(1965~1966・岩波書店)』『『西田幾多郎遺墨集』1巻(1977・燈影舎)』『『西田幾多郎全集 新版』全24巻(2002~2009・岩波書店)』『荒井正雄著『西田哲学読解――ヘーゲル解釈と国家論』(2001・晃洋書房)』『竹村牧男著『西田幾多郎と仏教――禅と真宗の根底を究める』(2002・大東出版社)』『小林敏明著『西田幾多郎の憂鬱』(2003・岩波書店/岩波現代文庫)』


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改訂新版 世界大百科事典 「西田幾多郎」の意味・わかりやすい解説

西田幾多郎 (にしだきたろう)
生没年:1870-1945(明治3-昭和20)

哲学者。近代日本の代表的哲学者として,その哲学はしばしば〈西田哲学〉と呼称される。石川県に生まれ,1894年東京大学哲学科選科を卒業,96年に金沢の第四高等学校講師,次いで教授となった。そのころから,物心両面の苦悩のうちに参禅の経験を重ねたが,やがて当代の日本に広い影響を与えていたT.H.グリーンの理想主義的人格主義倫理学やW.ジェームズの純粋経験の哲学にも学びつつ,主客未分の〈純粋経験〉の世界を実在の根本実相と観ずる立場に到達した。それを論述したのが《善の研究》(1911)であり,この書は,近代合理主義,理想主義と,現実の日本の非合理的情念,実利主義との間で近代的自我の確立に苦しんでいた当代の青年に,衝撃的な影響を与えた。やがて学習院教授を経て,1910年京都大学哲学科倫理学講座の助教授に着任し,13年教授となって,前任の桑木厳翼の東大転出とともに哲学講座の中心となった。京大哲学科はそのころから波多野精一,深田康算,朝永三十郎,やがては田辺元らを擁して,日本のアカデミー哲学の中心となり,三木清をはじめ多くの青年が西田や波多野を慕って京大に学ぶようになった。

 西田は,やがて《自覚に於ける直観と反省》(1917)等の著作を通して,はじめの純粋経験の立場のもつ主観主義,主意主義にきびしい批判を重ね,ついに〈場所の論理〉に到達した。それは,実在の根底を弁証法的一般者とし,単に反省的思惟ではない行為的直観におけるその自己限定として世界をみる〈絶対矛盾的自己同一〉の論理であり,〈知〉と〈行〉の一致の極致としての絶対無の弁証法的論理であった。ここに近代西欧の理性主義的論理を超える東洋文化の哲学的根拠が与えられたとされ,〈西田哲学〉の呼称も,この立場を明確にした《働くものから見るものへ》(1927)が世に出されるころから行われた。西田は,《一般者の自覚的体系》(1930)や《無の自覚的限定》(1932),《哲学の根本問題》(1933)などでこの立場を練り上げたが,そのころからマルクス主義が日本の思想界に大きな影響をひろげるようになった。西田もそれと対質しつつ〈歴史的現実世界〉の問題と取り組み,〈場所〉を〈弁証法的世界〉として具体化し,〈絶対矛盾的自己同一的世界の自己限定〉として〈歴史的実在〉の世界をとらえる立場を展開した。

 この間,西田は28年京大を定年退官し,書斎でみずから〈悪戦苦闘〉と称した思索の生活を送ったが,その哲学体系を物理的存在や生命世界,芸術,倫理,宗教の諸領域にわたって展開しつづけた。そして,西田哲学は,30年《西田先生の教を仰ぐ》を書いて批判を表明し,独自の立場へ進もうとした田辺元をはじめ,三木清,戸坂潤らの批判的対決,また西田哲学を継承しつつこれを歴史哲学の領域に適用し,太平洋戦争を世界史の道義的課題と説く〈世界史的立場〉の哲学を主張した高坂正顕,高山岩男,西谷啓治らいわゆる〈京都学派〉の哲学者たちなど,継承と批判をともども含む大きな影響をひろげた。
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百科事典マイペディア 「西田幾多郎」の意味・わかりやすい解説

西田幾多郎【にしだきたろう】

日本の代表的哲学者。石川県出身。四高中退後,東大選科に入り,鎌倉の円覚寺などで参禅。1899年山口高校講師を経て四高教授となり,熱心に打座・参禅して,〈純粋経験〉〈直接経験〉および〈絶対矛盾的自己同一〉など,のちの彼の根本思想となるものについて思索を深めた。1909年学習院教授,1910年招かれて京大助教授となり,1911年《善の研究》を発表し,1913年京大教授となった。東洋的精神性の自覚を基礎に,西洋哲学を積極的に摂取し,東西思想の内面的統一を求めて,独特の〈西田哲学〉を樹立し,田辺元らと京都学派(西田学派)を形成した。1928年退官後も活発な著作活動を続け,大正・昭和時代の哲学思想に大きな影響を与えた。1940年文化勲章。著書《自覚に於ける直観と反省》《働くものから見るものへ》《哲学の根本問題》。全集18巻がある。
→関連項目桑木厳翼谷川徹三土田杏村三木清

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朝日日本歴史人物事典 「西田幾多郎」の解説

西田幾多郎

没年:昭和20.6.7(1945)
生年:明治3.4.19(1870.5.19)
哲学者。現在の石川県宇ノ気町に,父得登,母寅三の子として生まれる。戸籍上の出生は,慶応4年8月10日(1868.9.25)。四高を退学後,帝大(東大)の選科に学ぶ。生家の没落,家庭的不幸,素志の挫折が青春をさいなんだ。四高に職を得,西洋哲学の研究に努めるとともに,座禅に専念,号寸心を得る。明治43(1910)年,京都帝大に招かれ(1913年教授,28年退官),翌年,近代日本哲学の最初の独創的著作となる『善の研究』を刊行。西欧的思惟と自身の禅体験を「純粋経験」によって融合させた本書は,真摯な求道者的姿勢と相俟ち(「偽我を殺し尽して一たび此世の慾より死して後蘇る」),人々に鮮烈な感動と多大な影響を与え続けた。以後死の寸前まで思索と執筆に没頭,悪戦苦闘の一生となる。「あさに思ひ夕に思ひ夜におもふ思ひに思ふ我が心かな」。あくまでも西洋の論理を追求しながら,根底に東洋の思考,日本人の心性を踏まえた我々の哲学であった。昭和15(1940)年文化勲章受章。体系は一部の批判を浴びる反面,絶対無,場所の論理など,現代の袋小路を突破するアイデアを蔵するが,生の底知れぬ深淵に対する憑かれたような論理化への努力こそが,尽きせぬ魅力の根源であろう。翻訳,紹介も活発で,田辺元ら京都学派と呼ばれるその学統とあわせ,欧米での評価と関心は近年とみに高い。闊達な書は全人格を表す。「愛宕山入り日の如くあかあかと燃し尽さん残れる命」。終生の友鈴木大拙が慟哭する。「とうとう西田死んだ!」。<著作>『西田幾多郎全集』全19巻。<参考文献>下村寅太郎『西田幾多郎』,中村雄二郎『西田幾多郎』,竹田篤司『西田幾多郎』

(竹田篤司)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西田幾多郎」の意味・わかりやすい解説

西田幾多郎
にしだきたろう

[生]明治3(1870).5.19. 石川
[没]1945.6.7. 鎌倉
哲学者。 1894年帝国大学哲学専科卒業,各地の学校で教鞭をとり,1910年以後京都帝国大学で倫理学,宗教学,次いで哲学を教授。その間『善の研究』の各編を発表 (1911) 。「純粋経験」を唯一の実在としてそれを自己の根本的立場とした。『自覚に於ける直観と反省』 (17) ,『一般者の自覚的体系』 (30) を経て,『無の自覚的限定』 (32) にいたって彼の哲学は体系化されるが,その軌跡は東洋の形而上学的原理である絶対的無を論理化することによって,有を原理とするヨーロッパの哲学を超克,包含する過程であった。 40年文化勲章受章。周辺には田辺元,波多野精一,和辻哲郎らの優秀な哲学者が集り,また天野貞祐,三木清らはその門下生。『西田幾多郎全集』 (19巻,65~66) がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西田幾多郎」の解説

西田幾多郎 にしだ-きたろう

1870-1945 明治-昭和時代前期の哲学者。
明治3年5月19日生まれ。山口高,四高などの教授をへて,大正2年京都帝大教授となる。明治44年主客未分の純粋経験をキーワードにした「善の研究」を刊行。場所の論理,行為的直観,絶対矛盾的自己同一などの概念によって西田哲学といわれる独自の体系をきずく。昭和3年退官後も思索をふかめ,死を間近にして「場所的論理と宗教的世界観」を完成させた。15年文化勲章。昭和20年6月7日死去。76歳。加賀(石川県)出身。帝国大学卒。号は寸心。著作はほかに「働くものから見るものへ」「自覚に於(お)ける直観と反省」「哲学の根本問題」など。
【格言など】ただ一つの思想を知るということは,思想というものを知らないというに同じい(「続思索と体験・「続思索と体験」以後」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「西田幾多郎」の解説

西田幾多郎
にしだきたろう

1870.5.19~1945.6.7

明治~昭和前期の哲学者。号は寸心。石川県出身。東大卒。帰郷して教職につき,1899年(明治32)四高教授。1907年「哲学雑誌」に「実在に就いて」を掲載して学界に知られた。09年学習院教授,翌年京都帝国大学助教授。11年に「善の研究」を刊行。13年(大正2)同大教授となる。大学ではブッセ,ケーベルらに学んだが,グリーンの自我実現説に関心を抱き,金沢時代の10年間は参禅によって思索を深めた。中央を離れての生活が「善の研究」の中核をなす純粋経験へと結晶し,以後はもっぱらその論理的純化に努めた。西田哲学とよばれるその思想体系は東洋的といわれるが,意図的ではない点から独創的とされる。学士院会員。40年(昭和15)文化勲章受章。「西田幾多郎全集」全24巻。

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旺文社日本史事典 三訂版 「西田幾多郎」の解説

西田幾多郎
にしだきたろう

1870〜1945
明治〜昭和期の哲学者
石川県の生まれ。東大卒。中学校教諭を経て,旧制四高(現金沢大学)・学習院教授などを歴任,1913年京大教授となる。もっぱら坐禅・読書・思索に没頭し,処女作『善の研究』(1911)で,根本思想を確立。ドイツ観念論の影響のうえに東洋的色彩の濃い観念論哲学である西田哲学をつくり上げた。1940年文化勲章を受章。

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世界大百科事典(旧版)内の西田幾多郎の言及

【一元論】より

…西洋での代表者は一者(ト・ヘンto hen)からの多様な現象の流出を説くプロティノス,〈産む自然〉としての一なる神を実体,多様な〈産まれた自然〉をその様態と説くスピノザなどである。西田幾多郎の《善の研究》(1911)は,純粋経験の程度・量的差異による世界と人生の一元論的説明の試みと言いうる。一元論は日本では《哲学字彙》(1881)以来,訳語として定着した。…

【宇ノ気[町]】より

…湖岸の大崎では小規模ながら漁業が行われる。哲学者西田幾多郎の生誕地で,西田記念館がある。ほかに縄文中期の上山田貝塚がある。…

※「西田幾多郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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