繊維から糸を紡ぐ工業。広く紡績工業は、原動力ならびに機械使用の有無によって、手紡績工業(手または紡車によって人力で紡績)と機械紡績工業(畜力、水力、蒸気力あるいは電力による大規模かつ大量生産の紡績)に大別されるが、後者が現在の紡績工業の主要部分を占めている。また使用原料から区別すれば、(1)綿紡績、スフ紡績、合繊紡績、特綿紡績、特繊紡績(綿花、ビスコース短繊維、合繊短繊維を原料)、(2)梳毛(そもう)紡績(羊毛を原料)(3)絹糸紡績、紡毛紡績、麻紡績など(生糸、羊毛、再生羊毛、麻などを原料)に分類される。したがって、各紡績工業が生産する糸も、綿糸、梳毛糸、絹紡糸をはじめ、天然の原料とスフ糸などをはじめ合成繊維またはアセテート繊維、ビスコース繊維などとの多種多様な混紡糸が存在する。綿紡績業、毛紡績業(梳毛紡績が中心)、化繊紡績業(スフ紡績業、合繊紡績業)の三者が紡績工業のなかで主要な地位を占めており、化繊紡績業は実際は綿紡績業のなかに含まれ、両者をあわせて綿紡績業という場合が多い。つまり、綿紡績業が紡績工業の中心であった。
[加藤幸三郎]
歴史的にみれば、「産業革命の祖国」イギリスでは、18世紀の後半以降、紡績・織布技術の発明や改良が相次いだことは周知のとおりである。たとえば1738年L・ポールとJ・ワイヤットが協力してローラー紡績機を発明、続いて改良を重ね1741年にはバーミンガムに工場を建設するJ・ハーグリーブスは1764年ごろにジェニー紡績機を、続いて1769年にR・アークライトが水力紡績機をそれぞれ発明している。後者のアークライトがイングランド中部ダービーシャー・クロンフォードに紡績工場を建設したのは2年後の1771年であり、J・ワットの発明した蒸気機関が実用化される1776年以後に原動力を水力から蒸気力にかえることに成功し、ここに工場制機械紡績業が出現した。さらに1785年にはE・カートライトによる力織機の発明や、アメリカでのE・ホイットニーによる綿繰(わたくり)機の発明などが綿紡績業の発展をいっそう助長したのである。また、イギリスの後を追って1793年にはS・スレーターがアメリカのロード・アイランドに水力紡績工場を創設しており、前後して、フランス、ドイツ、ベルギーなどヨーロッパ諸国でも工場制機械紡績業が発展を示してゆくのである。
しかし、欧米諸国のうちイギリス紡績業の発展はとくに著しく、紡績設備でみれば、1820年ごろには700万錘(すい)であったものが1860年ごろには3000万錘に達し、第一次世界大戦前の1912年には5500万錘を備えて世界全体の過半に近い状況にあり、翌1913年には70億平方ヤードの綿布輸出を示し、イギリスは世界綿布貿易の3分の2を独占した。アジアでは、日本、インドの紡績業が急速に発展し、とくに日本は1934年(昭和9)には26億平方ヤードの綿布を輸出して、イギリスを凌駕(りょうが)するに至った。第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた日本綿業は、戦後急速な復興を成し遂げ、再度綿布輸出では世界第1位を占めるに至った。一方、旧植民地から独立した開発途上国で綿業設備の増大、ひいては自給化が進み、1970年代以後、香港(ホンコン)、韓国、台湾などに代表されるアジア新興工業国・地域を中心に紡績機械と織機の集中を着実に進行させ、先進国へ綿製品を輸出するようになった。とくに1990年代以降は日本国内のニット製品・タオルなどでの生産が大きな打撃を受け続け、最近では世界貿易機関(WTO)協定に基づく「繊維セーフガード」(緊急輸入制限)発動の要求が強まっている。また原料面でも、1930年ごろからレーヨン短繊維、第二次世界大戦前後から合繊短繊維が紡績業に使用され始め、しだいに化学繊維の比重が高まってきている。
[加藤幸三郎]
日本の紡績業は、1867年(慶応3)に薩摩(さつま)藩が鹿児島市磯(いそ)に創設した鹿児島紡績所が始祖三紡績(ほかに薩摩藩堺(さかい)紡績所、鹿島(かしま)紡績所)のうちでもっとも古く、イギリスから輸入した紡績機械で綿糸を製造した点に後進国の特徴があった。明治期に入って、明治政府の殖産興業政策の重要な一環として「2000錘」を単位とするいわゆる十基紡が旧来の国内綿作地に設立されたものの、その保護・育成にもかかわらず、その多くは移植技術の未定着や錘数規模の過少、水力利用の限定性、さらには経営資金の調達がうまくゆかず失敗に終わった。この点を打開・克服してわが国紡績業の先頭にたったのが1万0500錘規模の民間の大阪紡績(1883年操業開始、現在の東洋紡の前身)であった。これより先1876年(明治9)には官営千住製絨(せんじゅせいじゅう)所を東京隅田川畔に創設して毛紡績工業の育成を図っている。
こうして、1880年代後半から急速に日本における綿糸紡績業は発展を遂げ、1890年には中国への国産綿糸の輸出を開始し、1913年(大正2)には外国綿糸の輸入はなくなって、逆に綿糸1億7000万ポンド、綿布2億3000万平方ヤードを超す輸出を実現し、イギリス、インドに次ぐ綿糸輸出国になり、生糸と並んで綿製品は日本の重要輸出商品となった。日本綿業は、第一次世界大戦を経ていっそう発展を遂げ、製糸業と並んで戦前の日本経済の中枢的位置を占め続けた。1930年代後半には、世界輸出市場でのイギリスとの地位を逆転したが、第二次世界大戦期には設備が大きな打撃を受け、敗戦により中国にあった紡績設備も同時に失った。戦後、綿紡績業は再建されるが、1960年代から慢性不況を重ね、戦後日本経済の重化学工業化が急速に進むにつれ、過剰設備の処理や規模の集約化を図ってゆくが、構造的不況を克服できぬままに現在に至っている。
[加藤幸三郎]
『飯島幡司著『日本紡績史』(1949・創元社)』▽『田和安夫編『戦後紡績史』(1962・日本紡績協会)』▽『有田圓二編『続戦後紡績史』(1979・日本紡績協会)』▽『楫西光速編『現代日本産業発達史11 繊維 上』(1964・現代日本産業発達史研究会)』▽『三輪芳郎編『現代日本の産業構造』(1991・青木書店)』▽『通商産業省生活産業局編『世界繊維産業事情――日本の繊維産業の生き残り戦略』(1994・通商産業調査会)』▽『岡本幸雄編『明治期紡績関係史料』(1996・九州大学出版会)』▽『米川伸一著『東西紡績経営史』(1997・同文舘出版)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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