杉田定一(読み)すぎたていいち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「杉田定一」の意味・わかりやすい解説

杉田定一
すぎたていいち
(1851―1929)

明治・大正期の政治家大アジア主義者。号は鶉山(じゅんざん)。嘉永(かえい)4年6月2日、越前(えちぜん)国坂井郡波寄村(福井市波寄町)の豪農仙十郎の長男として生まれる。1868年(明治1)大阪で理化学を、ついで横浜、東京で英語、ドイツ語を習得し、1873年帰郷。1875年再上京し『采風(さいふう)新聞』を創刊したが、翌年2月同紙に掲げた政府批判文が筆禍にあい下獄。出獄後東北地方より第二維新を起こそうと旧庄内(しょうない)藩で画策するが、志ならず土佐に赴き、板垣退助(たいすけ)らと自由民権運動に従事。1878年10月『評論新聞』の一文が再筆禍で投獄。1879年春出獄後帰郷し、権令(ごんれい)罷免にまで発展した地租改正反対運動を指導、自郷学舎(じきょうがくしゃ)を設立し越前民権運動の総帥となり、国会開設請願書越前七郡有志代表となる。1880年2月起稿の『経世新論(けいせいしんろん)』の筆禍で翌年1月下獄、1882年6月出獄後、自由党拡張に奔走する。1883年8月に『興亜策』を著述。翌年8月上海(シャンハイ)に渡り東洋学館を設立する。第1回衆議院総選挙(1890)で当選、以後中央政界で活躍する。隈板(わいはん)内閣の北海道長官、衆議院議長、政友会幹事長などを歴任。1912年貴族院議員となる。昭和4年3月23日没。

[松尾章一]

『雑賀博愛著『杉田鶉山翁』(1928・鶉山会)』『大槻弘著『越前自由民権運動の研究』(1980・法律文化社)』


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朝日日本歴史人物事典 「杉田定一」の解説

杉田定一

没年:昭和4.3.23(1929)
生年:嘉永4.6.2(1851.6.30)
明治大正期の政党政治家。越前国坂井郡波寄村(福井市)の豪農杉田仙十郎,隆の子。号は鶉山。明治8(1875)年政治家を志し上京,『采風新聞』の記者として活動を始め,『中外評論』『草莽事情』など当時の反政府的言論機関に関係,筆禍を受け2度の入獄を経験した。西南戦争(1877)後は板垣退助を中心とした自由民権運動に奔走,郷里波寄に民権政社(自郷社)を作り,国会開設請願運動に尽力,13年11月には越前において7041名の国会願望署名人を集め得た。一方当時越前7郡に展開された地租改正反対運動の指導者として減租を獲得し,現在も福井市の足羽山に杉田氏減租運動紀功碑が残っている。またこの時期に『経世新論』を出版,三度筆禍を受け入獄した。15年には南越自由党を結成,機関紙『北陸自由新聞』を刊行,越前における政治運動の拠点となった。次いで第1回衆院議員選挙に当選,以後第4回を除いて明治の終わりまで連続当選を続け,自由党,憲政党,立憲政友会に所属,その間31年北海道庁長官,39年衆議院議長,41年政友会幹事長を歴任,45年貴族院議員に勅選されるまで党の第一線の重鎮として活動した。また地元福井県における絹織物業の発展,九頭竜川の改修工事,三国鉄道の敷設などに尽力し,地方政界の長老として大正から昭和初頭まで君臨した。彼が還暦を迎え作詩した「自述」と題する「北馬南船六十年/人情世態幾変遷/白頭未作児孫計/売却家山二頃田」(頃は百畝)という詩はよく彼の本領を物語っていよう。世にいう井戸塀政治家の典型であった。<参考文献>雑賀博愛『杉田鶉山翁』,「杉田定一関係文書」(大阪経済大学図書館),池内啓『杉田定一翁』

(池内啓)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「杉田定一」の意味・わかりやすい解説

杉田定一
すぎたていいち

[生]嘉永4 (1851).6.2. 越前
[没]1929.3.23. 東京
明治・大正・昭和期の政治家。号は鶉山(じゅんざん)。幼年の頃,松井耕雪,吉田東篁の塾に学び,1875年に上京。『評論新聞』『采風新聞』の記者となり自由民権運動に参加,明治新政府を攻撃し投獄された。出獄後,高知の自由民権運動に加わり,1878年に板垣退助と愛国社を設立,また帰郷して自郷社を結成した。この自郷社によって地租改正再調整運動(→地租改正)を指揮し,再び投獄。1880年出獄し国会期成同盟を設立,1881年自由党結成に参画,1884年国に渡って上海で東洋学館を興し,以後アメリカ合衆国,イギリスなどに遊学した。1890年には第1回衆議院議員総選挙に当選し,平岡浩太郎らとともに憲政党を結成,さらに北海道長官に任命された。1899年伊藤博文立憲政友会の組織化を促し,以後政友会に所属。1924年政友会分裂の際政友本党に一時籍を置いたが,1927年政友会に復帰した。1906年には衆議院議長となった。1912年貴族院議員に勅選。主著に『血痕集』(1879),『経世新論』(1880)がある。

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「杉田定一」の解説

杉田 定一
スギタ テイイチ


肩書
衆院議長,立憲政友会幹事長

別名
号=鶉山

生年月日
嘉永4年6月2日(1851年)

出生地
越前国坂井郡波寄村(福井県福井市)

経歴
吉田東篁の塾などに学び、海老原穆の「評論新聞」に入り民権論を提唱、時の政府を攻撃して入獄。明治11年板垣退助らと愛国社を再興、福井県の地租改正再調査運動を指導、筆禍で入獄。14年自由党結成に参加。17年清仏戦争で清国に渡航し、上海に東洋学館を興した。18年欧米漫遊、20年帰国。23年以来衆院議員当選9回、憲政党結成に参加、31年大隈内閣の北海道庁長官。33年立憲政友会創立に参画、36年衆院副議長、38〜41年議長。41年政友会幹事長。45年〜昭和4年勅選貴院議員。大正13年政友本党に属したが、昭和2年政友会に復帰して顧問。著書に「血痕記」「経世新論」「国是策」「東亜管見」などがある。

没年月日
昭和4年3月23日

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20世紀日本人名事典 「杉田定一」の解説

杉田 定一
スギタ テイイチ

明治〜昭和期の政治家,民権運動家 衆院議長;立憲政友会幹事長。



生年
嘉永4年6月2日(1851年)

没年
昭和4(1929)年3月23日

出生地
越前国坂井郡波寄村(福井県福井市)

別名
号=鶉山

経歴
吉田東篁の塾などに学び、海老原穆の「評論新聞」に入り民権論を提唱、時の政府を攻撃して入獄。明治11年板垣退助らと愛国社を再興、福井県の地租改正再調査運動を指導、筆禍で入獄。14年自由党結成に参加。17年清仏戦争で清国に渡航し、上海に東洋学館を興した。18年欧米漫遊、20年帰国。23年以来衆院議員当選9回、憲政党結成に参加、31年大隈内閣の北海道庁長官。33年立憲政友会創立に参画、36年衆院副議長、38〜41年議長。41年政友会幹事長。45年〜昭和4年勅選貴院議員。大正13年政友本党に属したが、昭和2年政友会に復帰して顧問。著書に「血痕記」「経世新論」「国是策」「東亜管見」などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「杉田定一」の意味・わかりやすい解説

杉田定一 (すぎたていいち)
生没年:1851-1929(嘉永4-昭和4)

明治・大正・昭和期の政党政治家。越前国(福井県)の豪農の出身。1878年愛国社の再興に参加し,自由民権運動の発展に尽力。郷里に民権結社自郷社を結成し,また77-80年越前6郡26ヵ村の地租改正反対運動を指導。81年自由党の結成に参加。90年第1回衆議院議員選挙以来当選9回。憲政党,ついで政友会の結成に参加。一時政友本党に移ったが27年政友会に戻り顧問となった。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「杉田定一」の解説

杉田定一 すぎた-ていいち

1851-1929 明治-昭和時代前期の政治家。
嘉永(かえい)4年6月2日生まれ。杉田仙十郎の長男。郷里福井県で国会開設請願運動,地租改正反対闘争を指導。自由党の結成に参画し,明治23年衆議院議員(当選9回,政友会)。31年第1次大隈内閣の北海道庁長官となる。39年衆議院議長。貴族院議員。昭和4年3月23日死去。79歳。

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367日誕生日大事典 「杉田定一」の解説

杉田 定一 (すぎた ていいち)

生年月日:1851年6月2日
明治時代-昭和時代の政治家。衆議院議員;北海道庁長官
1929年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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