坂部村
さかんべむら
[現在地名]天龍村大字坂部
下伊那郡最南端の農山村。北は福島村、東は天竜川を境に鶯巣村、南は三河国設楽郡、西は向方村に接する。
村高は正保四年(一六四七)に四五石余(信濃国絵図高辻)。
天竜川右岸の緩傾斜の台地上にある元村集落の観音堂には陰刻銘で「康応□己巳年八月」と記された銅製鰐口があり、また元村の集落の西端にある諏訪神社の本殿の傍らにある八王子社には「信州関郷左閑部若宮八王子鰐口、永享十一年十月廿五日、丹那衛門太夫」の陰刻銘をもつ鰐口がある。「熊谷家伝記」に「焼畑を切開き、文和二癸巳春より山作を始め、是より諸山を段々切開きたる也」とみえ、一四世紀中頃に熊谷家が入り開拓し、鰐口をも移入してきたと推測できる。
坂部村
さかべむら
[現在地名]大森町坂部
保呂羽山麓にあり、東は八沢木、西は小羽広村(現由利郡大内町)、北は羽広村(現大内町)、南は法内村(現由利郡東由利町)に接する。
寛永四年(一六二七)の油利新沢ノ内川池八ケ所打直免定之覚に
<資料は省略されています>
とあり、また、正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)に「高三拾五石五斗三升 田方 坂辺村 水損所かや山有」とある。
山中の小村であるが秋田・亀田・矢島三領の接する境界地にあるため、その帰属をめぐって八沢木村(秋田領)と羽広村(亀田領)の間に境論が起こり、元禄一三年(一七〇〇)江戸で幕府の裁決が下った。
坂部村
さかべむら
南北朝時代からみえる村で、江戸時代の上坂部村・下坂部村一帯に比定される。「酒部」とも記される。元弘三年(一三三三)五月一〇日の太山寺衆徒注進状(太山寺文書)によれば、同年閏二月二四日に「坂部村」で赤松円心(則村)とともに摂津に進軍した太山寺(現神戸市西区)衆徒と六波羅軍との間で合戦があり、同寺衆徒側の刑部次郎安重が討死している。「太平記」巻八によれば同月二八日には六波羅の討伐軍が西下したのに対して赤松軍は「久々智・酒部」に陣取っていたが、三月一〇日に尼崎に上陸した阿波小笠原勢に攻め寄せられ、小屋野(現伊丹市)まで撤退している。当地は尼崎や神崎から有馬(現神戸市北区)へ至る道筋にあたり、文明一二年(一四八〇)甘露寺親長は堺から有馬に向かう途中に「酒部宿」に一泊し、帰路にも同所に立寄った(「親長卿記」四月二八日条・五月一二日条)。
坂部村
さかべむら
[現在地名]阿久比町卯坂
阿久比川西岸の地で、東は川を隔てて福住村に接する。西は丘陵で西高東低の地形。支村を総山という。「寛文覚書」によれば、概高四二五石余、田地二五町九反三畝余、畑地四町八反二畝余、戸数三二、人口二〇八。将軍上洛・朝鮮使節通行の時東海道鳴海宿へ人馬を出すとある。「徇行記」によれば「戸数多クシ佃力足リ」、農閑期には開墾や土木工事に従事する黒鍬稼や酒造の杜司に雇われる者がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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