垂井宿(読み)たるいしゆく

日本歴史地名大系 「垂井宿」の解説

垂井宿
たるいしゆく

[現在地名]垂井町 垂井

中山道の宿場。中世初期より垂井宿とみえ、交通の要衝であった。美濃路を分岐する追分宿であり、南宮なんぐう神社への参道が通じ、古くから町場として賑った。東の赤坂あかさか宿(現大垣市)までは一里一二町、西の関ヶ原宿までは一里一四町の里程。中山道分間延絵図では町並の景観がみられ、東端を流れるあい川対岸より美濃路が分れる。大垣宿までは二里半六町。宿内の町は東より東町仲町西町と続き、仲町・西町には問屋場・本陣脇本陣・高札場があり、南宮神社への道は御幸ごこう道と記され、道の入口には鳥居が描かれている。

中山道に宿駅伝馬制が布かれた慶長七年(一六〇二)から近世宿としての整備が進められたと考えられる。同一四年高須藩主から宿助成のため馬飼料の大豆が当宿問屋方に支給されている(「渡状」林文書)。元和二年(一六一六)の定写(不破文書)には伝馬・駄賃とも一駄につき四〇貫目、関ヶ原宿までは二五文などとあり、この定に従わぬ場合は町中に対し家一間につき鐚銭一〇〇文ずつを過銭として科すという規定であった。寛政一三年(一八〇一)の宿明細帳(土山文書)には木曾路と美濃路の追分とあり、宿高七〇四石余、宿内人別一千二三九・同家数三二八、中町(仲町、宿村大概帳では西町)の本陣は建坪一七八坪、脇本陣は建坪一三五坪でいずれも玄関・門構付、問屋場は三ヵ所。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の垂井宿の言及

【垂井[町]】より

…揖斐関ヶ原養老国定公園,伊吹山県立自然公園に属し,美濃国分寺跡,竹中氏陣屋跡,南宮神社など史跡も多い。【上田 雅子】
[垂井宿]
 古代の不破駅の所在地は垂井とも青墓ともいわれる。下って,承久の乱に幕府軍が垂井・野上両宿に陣し,また1238年(暦仁1)将軍藤原頼経が宿泊するなど,鎌倉時代以降東山道の宿駅として発達した。…

※「垂井宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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