日本歴史地名大系 「垂井宿」の解説
垂井宿
たるいしゆく
中山道の宿場。中世初期より垂井宿とみえ、交通の要衝であった。美濃路を分岐する追分宿であり、
中山道に宿駅伝馬制が布かれた慶長七年(一六〇二)から近世宿としての整備が進められたと考えられる。同一四年高須藩主から宿助成のため馬飼料の大豆が当宿問屋方に支給されている(「渡状」林文書)。元和二年(一六一六)の定写(不破文書)には伝馬・駄賃とも一駄につき四〇貫目、関ヶ原宿までは二五文などとあり、この定に従わぬ場合は町中に対し家一間につき鐚銭一〇〇文ずつを過銭として科すという規定であった。寛政一三年(一八〇一)の宿明細帳(土山文書)には木曾路と美濃路の追分とあり、宿高七〇四石余、宿内人別一千二三九・同家数三二八、中町(仲町、宿村大概帳では西町)の本陣は建坪一七八坪、脇本陣は建坪一三五坪でいずれも玄関・門構付、問屋場は三ヵ所。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報